九
ビルの東端に位置する窓口で閲覧申請を済ませ、紗江子のいる隣の建物へと向かう。軽やかな足取りがスキップになりかけているのに気づき足を止めた。
以前の紗江子は全くと言っていいほど笑顔を見せない女性だった。他の職員がくだらない――笑い声の品のなさにそう判断した――話題に声を上げてはしゃいでいても、彼女だけは周囲と切り離された空間にいるかのようにデスクに視線を落としたまま、積み上げられた書類の山と格闘していた。美人だが面白味に欠ける――。こうなる以前、俺は紗江子にそんな印象しかもってなかった。それがこの数日で紗江子は見事に変貌していた。
「同僚や出入り業者さんの下らないジョークもおかしく聞こえて笑ってしまうの。幸せだからかな? ジュンのことを誰かに話したくて堪らない」
昨夜のデートでも紗江子はそんなことを言っていたのだった。
「独身の俺達だし、ことさら秘密主義を貫く必要はないだろうな。でも好んで噂好きな連中の肴になることもない、普段通りでいいじゃないか」
「そっか、そうよね」
そう諭した俺がまさかスキップを踏んで彼女の前に現れる訳にもいかない。もう一度、両足が地についているのを確認してふたつめの自動扉をくぐった。
口の軽そうな斎藤やデートの目撃者である職員がどれだけ俺達のことを吹聴していたかはわからない。しかし新年の業務が始まってまだ幾日も経っていないこの時期、そうそう噂が広まっていることもないだろう、と俺は高をくくっていた。
紗江子の前を通る時「おはよう、昼にメールする」と小声で告げる。目だけで笑って頷く彼女に、隣に座った女性職員が「ヒゲ王子様の登場ね」と囁くのが聞こえた。小声で紗江子が返す。「やめてってば」
やめてってばー! 俺も心の中でそう叫んだ。誰がそんなこっぱずかしいネーミングを考えつくのだ。年甲斐もなく紅潮してしまう頬を誤魔化すべく無理やり眉根を寄せて堪える。心なしか多くの職員が薄ら笑いを向けてくるようにも思える。マズイ、さっさとルーティンを済ませてここを出よう。俺は足早に次の窓口へと向かった。
「こちらでよろしかったでしょうか」
女性職員の変な日本語に曖昧に頷いてファイルを受け取る。その時、斎藤が追いついてきてデカい声を上げた。
「なんだ、ジュンさん、まだ居たんすか。そっかあ、最愛の女性と同じ空気をながく味わっていたいもんなあ。わかる、わかる」
なにもわかっちゃいねえよ、おまえは。振り向いて斎藤を睨みつける。いつも通りの手順でいつも通りの時間しか費やしていないのに、まだもクソもあるものか!
「あっ! スルーするんすか? サエコちゃーん、王子様ったら冷たいんだよー」
無言で通す俺に斎藤のテンションは更に上がった。既にどこからか『王子様』の呼称まで仕入れてきている。視線を振った先の紗江子は、遠目にも耳を真っ赤に染めて俯いていた。ぶん殴ってやろうかと思ったが、このコアラ男の相手をしていては、さらに時間を取られることになり、下手すれば立ち去る機会すら失いかねない。ざっと目を通し、社に報告すべき案件のないことを確認してファイルを返却した。
「お疲れ、お先に」と、斎藤の肉付きのよい背中に張り手をひとつくれてやる。バチンといい音がした。
「痛いっすよ」苦情は背中で聞き流す。
屋外から眺めるガラス張りのオフィスでは、カウンターに寄りかかった斎藤が俯いたままの紗江子に何か話しかけているのが見える。顔を上げた紗江子がふたことみこと返している。何を聞かれてどう答えたのかが気になった。
小柄な斎藤が体を預けるにはそのカウンターは結構な高さがあり、片足が宙ぶらりんになっている様は微笑ましくもある。ついさっき腹を立てたことを忘れそうになった。
メールじゃあまどろっこしいな、今夜にでも紗江子と逢って善後策を講じよう。困惑していたはずの俺だったが、彼女を誘い出す口実が見つかり嬉しくもあった。社用車に乗り込んだ時、鼻歌を歌っている自分に気がつく。ルームミラーに映る顔は、腹立たしくなる程、しまりのないものであった。