八十九
斎藤が見舞いにやってきたのは昼食を終えてしばらくしてからのことだ。役所で紗江子の隣に座っていた松野かおるという女性が一緒だった。
「紗江ちゃん、どうしちゃったの? 何で知らせてくれなかったのよ、水臭いじゃない」
「ごめんね、検査だけのつもりだったから。みんなに迷惑かけてるんじゃない?」
「そうっすよ、ジュンさんからいきなり電話があったかと思ったら『俺の代わりをしろ、待遇は保証してやるから、すぐに会社を辞めて富士ノベルテックに来い』でしょう? 紗江ちゃんに事情を訊こうにもオフィスにはいないし――。俺はなにがなんだか、さっぱりわかんなかったっす」
俺は社長が要望した代役に、斎藤をあてがっておいた。松野かおるが紗江子に小声で囁くのが聞こえた。
「彼、ただの王子になっちゃったわね。丸刈り王子ってとこかな」
紗江子がくすくすと笑った。頼むから王子は止めてくれないか、その言葉に俺は白いタイツを履かされ嫌々演じた幼稚園のお遊戯会を思い出してしまうのだ。
「ところで、おまえらはいつからそうゆう関係になったんだ」
俺は斎藤に問い質す。彼が答える前に松野かおるが大袈裟に手を振って言った。
「なに、言ってるんですか! そんな関係にもこんな関係にもなってません。斎藤君が病院を知ってるっていうから一緒に来ただけです。このひとったら一緒に行かないなら教えないっていうんですよ」
ムキになって否定するが、まんざらでもなさそうに見える。
「俺のほうが年上なんだから『君』じゃなく『さん』って呼んでくれないかな」
「小野木さんみたいに、あたしのピンチに颯爽とあらわれて助けてくれるなら考えてあげてもいいわよ」
「勘弁してくれよ、かおるちゃんのピンチを俺がどうやって知るんだよ。それに君はそうちょくちょくピンチに陥るのか?」
うーん、と数秒考えて松野かおるは答えた。
「例えばコンビニでお金を払おうとしたら足りなかったとか、料理をしてたら醤油を切らしてたとか――」
「それじゃあ、王子様じゃなくって召使いじゃないか」
斎藤の不平に、紗江子が吹き出した。
「ジュンさんのあれは伝説になっちゃってるんすよ。俺は割りを食ってる感じっす」
「偶然ああなっただけだ、お前の苦情はいつも見当はずれだな。会社はどうだ、上手く回ってるのか?」
「ジュンさんの言った通り、課長は口うるさいっす。でも給料はいいし、前の会社より若い女子社員が多い。そこは感謝してます」
「なんですって」
かおるが斎藤を睨みつける。
「じょ、冗談だってば」
ふたりのやり取りを眺める紗江子は、とても楽しそうだった。俺はこのまま時間が止まってくれないものかと真剣に願っていた。
「じゃあ、また来るわね。早く良くなってね」
「うん、ありがとう。職場のみなさんにもよろしく伝えておいてね」
「あっ! 待ってくれよ」
俺と話し込んでいた斎藤が松野かおるの後を慌てて追う。小太りの体を開き切ってないドアにぶつけながら通り抜けるその姿に、俺達はほのぼのさせられた。
「あの様子じゃあ斎藤は尻に敷かれるな」
「そうね、でもお似合いだわ」
「斎藤は君を狙ってたって言ってたんだぞ」
「嘘ばっかり。そんなこと、これっぽっちも聞いたことないわ。それにあたしはジュン一筋ですから」
紗栄子は得意気に顎を持ち上げる。
俺がいればそれでいいと言ってくれる紗江子だが、斎藤達の見舞いはいい気分転換になったようだ。「また来る」か……、誰でもいい、紗江子を訪ねて笑わせてやって欲しい。嘘を呑み込んだままの俺の演技は限界に近づいていた。
ふたりが持ってきた洋菓子らしき包みをキャビネットの棚に仕舞い込む。固形物は紗江子の喉は通らなくなっていた。