八十八
「どういう歌なの?」
唄い終わった俺に、紗江子が拍手と同時に質問を投げかけてきた。
「――星に手が届くなら、ひとつとって君のハートを照らそう。そうすれば真実が見えるだろう。もし世界を変えることが出来るなら、太陽となって君の世界を照らす。きっと僕の愛を気にいってくれるはずだ――そんな歌詞だよ、ラブソングだな」
「素敵! でもあたしはジュンが傍にいてくれるこの世界を変えて欲しくないわ。他には?」
紗江子に聴かせるなら、これしかないと思っていた。弾き語りに耐えられるほど俺の歌は上手くない。学生時代のライブも大山のマスクと声に観客が集まったようなものだった。
「お約束のスタンド・バイ・ミーなら歌える」
「拍手――ぱちぱちぱち」
紗江子は俺を乗せるのが上手い。
――調子に乗って、おさびし山の唄へと続く。
「スナフキンだあ!」
紗江子の歓声が屋上に響いた。
「もう終わり?」
「ああ、俺はギター担当で滅多に唄うことなんかなかったからな」
実は『ティアーズ・イン・ヘヴン』も唄えるのだが嘘をついた。
――天国で逢う君は、僕の名前を覚えているだろうか。以前と同じように僕に接してくれるかい――
そんな歌詞の曲は、例え、英語でも唄いたくなかった。。
「贅沢ね、あたしだけが観客のライブなんて」
ヘタクソな俺の歌を喜んでくれるのは君ぐらいのもんだ。俺はカーテンコールに応える舞台俳優のように大袈裟なお辞儀をしてみせる。
「さあ、もう時間だ。先生に叱られる前に病室に戻ろう。君が退院するまでにレパートリーを増やしておく」
「お願い、さっきのチェンジ・ザ・ワールドをもう一度、聴かせて。今度は歌詞もしっかり覚えたいの」
縋るような眼でアンコールをしてくる。紗江子の願いとは逆だが、俺はこの世界を変えたいと願っていた。治らない病気などない世界へと。そんな願いを込めて唄う。
「ジュンの好きな曲なんでしょう? 歌詞をよく知りたいわ」
「明日、クラプトンのアルバムをアイポッドにいれて、歌詞カードと一緒に持って来てやるよ。英語の勉強にもなるぞ」
医師に許可されたニ十分はとうに過ぎていた。俺の歌に合わせ身体を揺すっていた紗江子の膝掛けと酸素のチューブの位置を整える。指で触れた頬は氷のように冷たくなっていた。
「こんなに冷たくなってるじゃないか、病室に戻ろう」
車椅子を押す俺に紗江子の表情は見えない。チェンジ・ザ・ワールドのサビ部分をハミングする声だけが聞こえていた。