八十七
一年前のクリスマスに奈緒子から贈られたギターを抱えて病院の玄関をくぐる。外来で待つ患者や摺れ違う看護師達が、不思議そうな眼を俺に向けてきた。病院の静寂とエレキギターの騒音が彼らの良識に於いて相容れないものであるせいだろう。だが、或る動物の名前がつけられたこのギターは、スピーカこそ着いてはいるがフルボリュームにしてようやくドレッド・ノート(アコースティックギターの大きなボディを持つ物)並みの音量しか生み出ささない。
「寒かったら、言うんだぞ」
良く晴れた木曜日の午前中だった。俺は祥子から借りたダウンのコートを紗江子に羽織らせ、ニットキャップを被せてやる。
「お揃いなのね」
俺が被ったニットキャップを指差して、紗江子は嬉しそうに笑った。
「ああ、雑菌まみれの俺のお古って訳にはいかないからな。買ってきたよ」
或るスポーツメーカー製のニットキャップは、黒地にくすんだ赤で幾何学模様が描かれている。紗江子にスニーカーを買ってやった店にあったものだった。
「歩けるのに」不服そうに言う紗江子だったが、肺機能の低下している彼女から酸素のチューブは外せない。ボンベ用の架台が着いた車いすを押してエレベーターに乗った。
「寒いけど気持ちいい! 病室にばかりいると冬の寒さまでもが新鮮に感じられるのね」
およそ十日ぶりの屋外をじっくり味わうかのように、紗栄子は小さく伸びをした。そして眩しそうに冬の太陽を見上げる。暗くなりかけてからしか来たことのない屋上だった。以前は存在すら気づかなかった緑化庭園がある。俺は紗江子を乗せた車椅子を花壇の煉瓦塀に寄せて停めた。
「それは、なあに?」
俺が手にした音叉を指差して紗江子が訊ねる。
「チューニングに使う音叉だよ、開放五弦の音とシンクロさせるんだ。耳が命のギタリストがクロマチックチューナを使うなんざ、とんでもない話なんだぞ」
「ジュンがなにを言ってるのか、さっぱりわからない」
まあ、そうだろう。ギターに興味がなければ俺の薀蓄など坊主の経文みたいなもんだ。紗江子は音叉を手にとって俺を真似、膝を叩いている。
「膝掛けの上から叩いても響かないぞ。こうするんだ」
俺は車椅子のホイールを音叉で叩き、紗江子の耳に近づけてやった。
「ふうん、おもしろーい」
「よし、始めるぞ。二十分の約束だからな」
ローコードEのハンマリング・オンからアルペジオ、俺はエリック・クラプトンのチェンジ・ザ・ワールドを歌い始めた。