八十ニ
花瓶には大山が持ってきたらしい花が生けてあった。無味乾燥な病室は気が滅入ること夥しいのだが、いまは彩り豊かな花弁が華やかな雰囲気を醸しだしくれている。花に疎い俺はシクラメン以外、どんな花なのかもわからない。
日毎に喉を通るものが減ってゆく紗江子だった。食べ物ではない見舞いの品はありがたい。祐二の助言だったのだろう。病院の出す潰瘍食ですら一時間かけてやっと三分の一を食べるのが限界となっていた。いや、例えたくさん食べられたとしても収縮の始まっていた彼女の胃に、過度の期待はできない。点滴のみに栄養摂取を依存するようになっていた紗江子の体は日増しに厚みを失っている。掛けてやる布団の隆起が小さくなっていくのに、俺は胸が締め付けられる思いだった。
「いい香りがするな」
「うん。ねえ、あたしいいこと聞いちゃった」
『我慢出来るレベルではない』医師が言うのだ。それほどの痛みを隠して紗江子は笑顔で語りかけてくる。
「なんだよ、嬉しそうに」
「さっきね、祐ちゃんと一緒に大山さんがお見舞いに来てくれたの。ジュンの学生時代のお話をたくさん聞かせてもらったわ。そのお花も大山さんが持ってきてくれたのよ」
「ああ、たったいま、下ですれ違ったよ」
「ギター弾けるんじゃない。聴かせてよ、あたしにも」
大山と組んで演奏した文化祭の話でも聞いたようだ。
「個室でもさすがにそれは叱られるんじゃないのか? 先生に訊いて屋上に出てもいいっていわれたら――」
言い終わる前に紗江子の弾んだ声が重なった。
「あったかくして短い時間ならいいって、もう訊いたの」
「しょうがねえな、じゃあ今度ギターを持ってくるよ。でも屋上の雪がなくなってからだぞ。それと期待するな、この低い声なんだから」
「楽しみだわ」そう語る紗江子だが、さっきから頻繁に顔をしかめている。
「痛むんじゃないのか? 凄い汗だぞ。痛みどめの注射を頼んでくるよ」
席を立とうとする俺の腕を掴んで紗江子が言った。
「待って! 注射は嫌、ぼうっとしちゃって、そこにいるジュンが夢なのか現実なのかわからなくなってしまうんですもの」
ここに入院してからも、紗江子は激しい痛みで二度意識を失っている。それを見ている俺としては簡単に引き下がる訳にはいかない。
「病院にいるんだぜ、痛い思いを我慢する必要はないだろう」
「お願い、あなたがいない時はちゃんと看護師さんにお願いするから。ジュンがいる時だけでいいの、このままでいさせて。話していたいの、ジュンを見ていたいの」
モルヒネの注射を嫌がる紗江子について医師に相談したことがある。「好きにさせてあげなさい」そんな答えが返ってきた。俺はその言葉が意味するところを推測し、落胆したものだった。
紗江子の苦しむ姿は見たくない。しかし訴えるようにじっと見つめてくる彼女の望み通りにもさせてあげたい。俺はどうしたらいいのかわからなくなっていた。
抗がん剤にモルヒネ、がんの進行抑制と痛み止めにはなくてはならないものだ。しかし、それらがひとを健康から遠ざけることも疑いようのない事実なのだ。