八
「ズルイっすよ、ジュンさんは」
窓口が開くまでの待ち時間、休憩室でコーヒーを飲んで過ごす俺に、勢い込んで斎藤が言った。揺れる紙コップからしぶきが上がる。外は粉雪の舞う一月の朝だった。
「なんの話だ?」
いきなり責め立てられることになった俺に心当たりはない。手にしたコーヒーを口に運びながら訊き返した。
「このあいだ中尾ちゃんとボウリングに行ってたそうじゃないっすか。ここの職員が見たって言ってましたよ。奥さんがいて、ながく付き合ってた彼女も居て今度は中尾ちゃんっすか? そりゃあないっす。俺が狙ってたんすよ、あの子は」
中尾? ああ、紗江子のことか――。どうやら彼女とのデートを誰かに見られたらしい。しかし斎藤が狙っていたなんて話は初耳だ。そもそも男女の関係は狙ったから手にはいようなものではない。見当違いな非難に俺は少しムッとした。
斎藤は俺が毎日出向くオフィス――、紗江子の職場で親しく話しかけてくるようになった二十八歳の青年だった。小太りの体に愛嬌のある顔を乗せたこの男は年配の女性職員に人気があると聞いている。オーストラリアに生息する小動物に似てなくもない。そう言えば斎藤がここに来るようになって間もない頃、手続きの手順を俺に訊ねてきた時も人懐っこい笑顔だったなと、思い出す。
設計がやりたくて入った会社だったが、現場では歯車の図面を一枚書かせてもらったきり、こういった外回りや営業の真似ごとをさせられるようになっていた。俺がいつも不機嫌そうに見えるのはそのせいだ。
そして群れを成すのが嫌いな俺は、同様の役回りを仰せつかった他社の連中によって構築されるコミュニティには属さず「景気はどうですか? 新規受注はありますか?」などといった問い掛けにも必要最小限の受け答えをするだけの一匹狼を貫いていた。だが、この斎藤と設計の専門学校で机を並べていた水野、そしてもうひとり、俺の勤務先の系列会社にあたる機械工作所に所属する渡辺とだけは情報交換をする程度の付き合いがある。馬が合ったのだろう。
「そもそも、いつどうやって口説いたんすか? 元カノと別れたっていう去年なんか死神みたいな顔してたクセに」
斎藤の追及は止まない。
「死神ファンなんだよ、紗江子は」
面倒くさくなった俺は斎藤の言葉尻を捉えて返す。やれやれ、早くもばれてしまったか。そうは思いつつも多くの人々が出入りするこのオフィスで、顔の売れた者同士の恋愛がいつまでも隠し通せるものではなかったろう。
「あっ! サエコっていうんだ、中尾ちゃん」
おいおい、お前はファーストネームも知らずに狙ってたとか言うのかよ。呆れる半面、若者のこういった屈託のなさが羨ましくもある。
「女房とは十一月に離婚した。俺も紗江子も独身だ、自由恋愛に何の文句がある」
「それにしてもっす――」
依然として続く斎藤の追及を業務開始のチャイムが遮る。
「続きはまたな、始まるぞ」俺はそう締め括って席を立った。自動扉を抜けてオフィスに入ると、朝礼を終えた職員が席に着き始めていた。
「話は終わってないっすよー」
ガラスドアの向こうで斎藤が声を張り上げていた。