七十七
「申し訳ありません」
辞意を申し出た社長室での会話が蘇る。紗江子の病名を聞かされた翌日のことだ。一枚板の天然木を天板に用いた重厚なデスクを挟んで、椅子に深く身体をあずけた社長が俺に言う。
「どうしたんだ、一体。君は十年休暇もとってなければ、そろそろ勤続二十年にもなる。休職扱いにしてやろうといっているんだぞ。一ヶ月、いや二ヵ月でも構わん」
その期限が紗江子に残された時間のように思え、俺は社長の提案を受け入れることができなかった。
「社長のお心遣いは、たいへんありがたく存じます。ですが社の都合も考えず突然退社を申し出るわたしのような者に、そんなお気遣いは無用です」
「引き抜きか? 待遇なら考えないこともないぞ」
「それにはなんの不満も持っておりません。一身上の都合としか申し上げられませんが、社を裏切るような真似だけは決して致しません」
社長は、ふうむと唸って足を組み直すと、手に持ったファイルで机をぱたぱたと叩いた。俺の勤務評定かなにかなのだろう。
「よし、わかった。だったら君の代わりを連れてこい。そうすれば辞表を預かろう。そして、その一身上の都合が片付いたら戻ってこい」
戻る気はなかったが話が長引いて紗江子をひとりにしておく時間が延びるのが耐えられなかった。わかりました、と一礼して社長室を後にした。
「独立か?」「そんなんじゃねえよ、一身上の都合だ」「一身上? お前のことだから下半身上の都合だろう」「殺すぞ、この野郎」「殺されてやるから、辞めるんじゃねえよ」デスクの整理をする俺に、同僚や部下が近づいてきては声をかけてきた。
「係長、辞めちゃうんですか?」
女子社員がふたり、背後から遠慮がちに言った。
「ああ、急なことですまない。でも、バレンタインの義理チョコ代の節約にはなるぞ。君らにも色々と世話になったな、ありがとう」
「係長がいたから、課長のセクハラも鳴りを潜めていたのに――」
「俺の代わりなんざ掃いて捨てるほどいるさ。社長に後釜を見つけないと辞めさせないっていわれたからな。活きのいいのを見つけて放り込んでやるよ」
当の課長は出張中だった。俺のやることなすこと、すべてが気にいらない彼にとって反抗的な部下の辞職は、いい厄介払いに思えたことだろう。