七十六
〈スナック宴 ママ 氏家京子〉
紗江子の母親から名刺を渡される。名字が違うのは旧姓なのか源氏名なのか、特にそれをつきとめたいとも思えず、俺も名刺入れから一枚引き抜いて渡した。
紗江子の説明によれば四十九歳になるはずの母親だったが、水商売をしているせいか立ち振る舞いに年齢を感じさせない。涼しげな瞳ときれいな稜線を描く鼻は紗江子とよく似ていたが、全体から受ける印象が冷たく感じられた。先入観のせいかもしれない。
対象的に叔母の加藤頼子は見るからにひとの好さそうなおばさん風体で「面倒をかけます、お世話になっています」と、何度も俺に頭を下げてきた。アイスブレイクも抜きで氏家京子が言った。
「祐ちゃんからお話は聞いております。紗江子がたいへんお世話になっておりますそうで――。ですが、それと結婚とは別のお話です。わたくしはそう考えておりますので、そのおつもりで」
のっけから喧嘩腰かよ。紗江子の病状を知らせる前だ、穏やかに行こう。俺は自身に隠忍自重を強いる。
「その話はいずれまた――、今はそんな状況ではないんです」
「わかってます、胃がんなんでしょう。それも祐ちゃんから聞いてます。まったく親不孝な娘だわ。結婚は勝手に決めるし、手術だってお薬だって安くはないんだから」
あんたに金を出せとは言わないから安心しろ、手術ができるのならどんな手を使おうと俺がかき集めてきてやる。それができないから、あんたを呼んだんじゃないか。
詳しい状況を伝える前とはいえ、病気の娘を思い遣るどころか親不孝とまでいい切る女を、俺はぶん殴ってやりたくなった。
六階に上がり談話室を借りて紗江子の現状を伝える。病状を軽視していた氏家京子も絶句して俺の話に聞き入っていた。
「わたしの話が信じられなければ西尾先生にお確かめになって下さい。医学には素人のわたしです、正しくお伝えできてない部分があるかもしれません。日中は手術があって時間が取れないそうですが、外来を終えた夕方なら大丈夫だとおっしゃっていました」
医師から聞いた余名を告げた時点で紗江子の叔母はははらはらと涙を流し、さかんにハンカチで目元を抑えていた。ところが、母親のほうはきつく唇を結んだまま取り乱す様子もない。
「化学療法ってお金がかかるんでしょう。支払いはどうなってるの?」
水を向けられた祐二が、狼狽えた顔で俺を見る。
また金の話か――、母親なら真っ先に娘の体を心配するべきだろうが。隠忍自重の四文字がバラバラになり、切歯扼腕に姿を変えていた。
「月締めでまだ請求はきてませんが、わたしが払います。高額医療費の控除もありますし、べらぼうな金額にはならないでしょう。お母さん……、失礼、氏家さんにご承知いただければ入籍しようと思っていたのですから当然のことかと――」
「あら、わたくしは認めないなんていったつもりはなくってよ」
ついさっきそう言ったではないか、治療費を払うなら結婚も認めるとでもいうのか。紗江子の母親でなければ談話室の窓から投げ落としてやる。その衝動を抑えるのに必死だった。ブルブル震える俺の拳に気づいた祐二が不安げに俺と氏家京子を交互に見ていた。
「紗江……、お嬢さんには胃潰瘍のひどいものだと伝えてあります。今後どうすべきか、どの時点で真実を告げるべきかをご相談したく、御足労いただきました。わたしは暫く席を外します。親族のみなさんで御相談いただき、御意見をお聞かせ下さい」
あと、たった一言、怒りに油を注ぐ言葉を聞けば俺は爆発していただろう。それを鎮めるために退席を申し出た。
病室に立ち寄り、紗江子が眠っているのを確かめてロビーまで下りる。駐車場に停めた車から携帯灰皿を持ち出して病院の敷地外へと歩を進めた。
紗江子に付き添うようになって減った喫煙量のせいで、俺の身体はニコチンへの耐性が落ちている。大きく吸い込んだ一服目に軽い目眩を起こしていた。