七十五
「遅かったのね、えっ! どうしたの、その格好」
彼女が驚くのも当然だ。濡れたズボンを誤魔化すため膝までまくり上げ、泣き腫らした目を冷やそうと俺は頭から水を被っていた。洗面所から病室までの短い距離で練り上げた嘘を、頭の中で清書しながら紗江子に告げる。
「いやあ、医者の話は退屈で長い。居眠りしかけちゃってさ、冷たい空気で目を覚まそうと屋上に出たら凍った雪ですべって転んでこのザマだ」
作り笑顔で、濡れたズボンをつまんでみせる。紗江子は怪訝そうな顔で俺の足元から頭までを眺め上げた。不信感を与えるな、脳の司令に従って俺は嘘を続けた。
「でも、ちゃんと検査の結果は聞いてきたぞ。君の胃には十円玉大の穴があいているそうだ。せめてそれが半分ぐらいまで塞がらないと通院治療には切り替えられないってさ。胃潰瘍もここまでひどいのはそうは見られないって西尾先生が言ってたぞ。いい研究材料にされちゃうんじゃないのか? お気の毒さま」
「散々、待たされた挙句がその返事なのね。ジュン、眼が赤いわよ」
紗江子の観察眼は鋭い。
「ギクッ! 居眠りしかけたじゃなく、しちゃったのがばれたか」
「所詮、ジュンにとってあたしの病気は他人事なのよね」
紗江子はぷいと顔を背ける。俺は慌てて彼女の正面に回った。
「ヘソを曲げるなよ。いい報告もあるんだぜ」
「なによ?」
口を尖らせたまま紗江子が訊き返してくる。
「今日、出社したら課長から言われたんだ。勤続二十年休暇をくれるってさ。ニ週間だぞ? それだけあれば充分だろう、紗江子が退院するまで俺がずっとついててやる、他人がこうまでしてくれるかよ」
俺は乱暴な物言いを混じえることで嘘に真実味を持たせようとした。
――二十年休暇――そんな制度があることは知っていたが確かめるまでもない、俺は会社を辞める決意を固めていた。
「許してあげよっかなあ」
紗江子は俺の顔を両手で挟んで微笑んだ。即席の作り話をどれだけ信じてくれたのだろう。俺は、紗栄子が腕を伸ばした拍子に点滴のチューブが外れたりしないかばかりが気になっていた。