七十四
再生紙に図説を交えながらの説明は、素人の俺にも理解出来るはずだった。頷いてもいたのだろう、しかし視覚からも聴覚からも脳に上がってくる情報がない。「ながくもってふたつき」その言葉の持つ衝撃に俺は打ちのめされていた。
「紗江子の母親が、明後日に来ます。わたしの同意で出来る範囲の治療を始めて下さい。本人には……、わたしから話します」
なんとかそれだけを医師に告げ、俺はカンファレンスルームを後にした。
病室には戻れなかった。通院治療を期待して信じている紗江子にそんな残酷なことを伝えられるはずがない。悲壮感に塗り固められた俺の表情から、会談の内容を読みとるかも知れない。こんな心理状態で紗江子に疑いを抱かせない嘘を思いつく訳がない。どう伝える? 俺は夢遊病者のようにフラフラと屋上への階段を上っていった。
陽の翳りかけたそこに人影はない。濡れたコンクリートの床に給水塔が暗く長い影を落とし陰気なグラデーションを描いている。まるで俺の心情を映し出すかのようだった。
俺に出逢って人生が豊かになった。行きたいところもやりたいこともいっぱい増えた。そう楽しげに話してくれた紗江子から何故、未来を奪おうとする。冷気で冷たくなったフェンスの手摺りを両手で握って強く揺すってみる。ギシギシとフェンスの軋む音が聞こえるばかりで、問いかけへの答えはなかった。
俺は吠えた、獣のように吠え続けた。声が枯れ、喘ぐような息しか出なくなると膝をついて四つん這いになった。紗江子の告白を聞いた時に流し尽くしたと思った涙がまた溢れ出していた。
医師は一刻も早い治療の開始を勧めた。勿論そうしたい、しかし紗江子にどう話せばいい? 母親にはどう伝える?哀しみに麻痺した思考は、なにひとつ答えを見い出せないでいる。絶望感と無力感がグルグルと頭の中を駆け巡るばかりだった。
気がつくとすっかり陽は落ち、照明のない屋上を月灯りが照らし出している。東の空に昇りかけた三連星が眼にはいった。奈緒子、すまない、いまだけ君の星を借りる。奇跡が無理なら一日でも一時間でもながく紗江子がこの世界にとどまれるようにしてくれ。両の掌を合わせて握り締め、俺は深く頭を垂れた。
早く戻らないと紗江子に不安を抱かせることはわかっている。だが、こんな顔のままでは戻れない。身なりを整えよう。俺はのろのろ立ち上がって屋内に戻った。六階に下り、洗面所の冷水で顔を洗う。ズボンの膝から下は屋上に積もった雪でびっしょりと濡れていた。『尾羽打ち枯らした』、『濡れ鼠』、どちらの言葉もいまの俺をよく言い得ていた。