七十三
「そんなバカなっ! 職場では毎年健康診断を受けていて、なんの異常もないって言われていたんですよ。それが……、そんなことはとても信じられません」
西尾医師から紗江子の病名を告げられた俺は椅子を蹴立てんばかりに立ち上がる。我と我が耳を疑っていた。神代と自己紹介した医局長が両手のひらを下にして、まあまあ、落ち着いてとでも言いたげに手を振る。
「とにかく説明を聞いてください。あなたが取り乱していては話になりません」
西尾医師に諭され、俺は椅子に座り直した。
「なるべくわかりやすく説明します。不明な点があれば話の途中でも結構ですからお訊ね下さい。この病気は粘膜表面に変化をもたらさないため、健康診断や内視鏡検査でも発見出来ないことが多いのです。初期症状も殆どありませんので、本人の自覚症状に頼るしかない、ただ、それも進行してからしか現れません。ですから、既にこのような状況になっている場合も多く、手術の適用外、つまり外科手術による治療が有効でなくなってしまうのです。お気の毒ですが中尾さんの場合、ガン進行度の指標でいいますところのステージ4です。腹膜播腫も起こしてますし、遠隔転移のみられる肺の機能も低下しています。現在の医学では――」そこで言葉を切った西尾医師は、ひとつ大きく息を吐き、沈痛な表情でこう締め括った。「寛解は見込めないと言わざるを得ません。化学療法で進行を抑制するしかないでしょう」
「でも……、でも、紗江子はまだ二十六歳なんですよ」
なにかの間違いであって欲しい。俺は眼前の医師ふたりに縋るような気持ちで食い下がる。
「スキルス胃がんというのは若年層の女性が罹患することが多いのです。例え遠隔転移がなく手術が成功したとしても五年生存率が十~二十パーセントという恐ろしい病気なんです」
医局長が口を開きかけた女医を制して答えた。
「死ぬって……ことなんですか」
口にしたくない言葉だった。両医師ともに視線を落とすだけで否定の言葉を発することはなかった。
「医師の我々は奇跡に期待はできません。一刻も早く治療を始めたいと思います。抗がん剤での治療は過酷です。激しい副作用の出る場合もあります。白血球が減少し免疫力も低下していますから治療中の感染症にも配慮せねばなりません。中尾さんの血管は細く点滴ばかりにも頼れません。経口剤、つまり飲み薬と併用しての投与になると思います。御本人に知らせないのであれば、親族の同意書もいただいたほうがよいでしょう。決して小野木さんでいけないという訳ではありませんが、まだ入籍もされてないようですし……」」
あまりに唐突な運命の告知に俺の頭の中は真っ白になっていた。