七十二
仕事を定時で切り上げた俺は紗江子の病院へと向かった。検査が全て済めばマンションに連れて帰ってやれる。なんとなれば、うちに泊めてやってもいい。弾む気持ちが俺にアヴリルを口ずさませていた。
「えっ、なんで? 検査は全部終わったんだろう」
「知らないわよ、先生も看護師さんも、すべての検査結果が出てみないと、って言って教えてくれないんだもの。ねえ、ジュンが訊いてみてくれない? 西尾先生、今夜は当直だから、まだいらっしゃるはずなの」
紗江子の不機嫌の原因は病院側から退院を見合わすと言われたことにあった。スキップで部屋にはいった俺に、「ノックぐらいしてよ」と刺のある言い方をされ俺はムッとはしたが、辛い検査に耐えて待ち望んだ退院だった。それを理由も告げずに延期されれば紗江子でなくたって機嫌を損ねて当然だ。生理、悪阻、更年期障害。女性の不機嫌にいちいち頭にきていては良い夫は務まらない。こういった場合、正論が全く役に立たないことに気づかない限り、ひとりの女性を愛し続けることなどできはしないのだ。箸のつけられてない潰瘍食に目をやった俺が口を開く前に、紗江子は「食べたくない」と素っ気なく言った。
「そうか、じゃあ聞いてくるよ」
俺は病室を出た。ナースステーションで西尾医師の所在を訊ねると回診中だと言われる。このまま紗江子の病室にとって返す気にはなれなかった。空腹は苛々を募らせ、我儘になっていた紗江子と、しなくてもいい喧嘩までしそうに思えていた。エレベーターで一気に一階まで下りると、百メートルほど先に見える環状線沿いのファミリーレストランに足を運んだ。
俺の旺盛な食欲が低下するのは自身の恋愛が上手くいってないときに限定される。風邪で熱を出している時ですら体力の回復を第一に、と食べまくる俺が、大嫌いな人参のグラッセ以外を残すなど考えられないことだった。注文したハンバーグプレートがよほど不味かったのかもしれない。とにかく運ばれてきた料理の三分の一を残してレストランを出た。
「西尾先生は?」
先ほどの中年の(俺もそうだが)看護師はおらず、茶髪、というより金髪に近い髪色の若い看護師がナースステーションの受付に座っていた。
「仮眠中です。あっ、中尾さんの……、えっ?」
顔を上げた看護師が言いたかったのは、自分ならこんな中年男は婚約者に選ばないのに、といったところか。俺も君を選ぶことはないから安心しろ、と腹のなかで言い返す。紗江子の不機嫌が感染していたのだろうか、こうした負の感情の連鎖は楽天家の俺には珍しいことだった。
「ええ、そうです。中尾紗江子の退院を見合わせた理由を伺いたんですが」
「伝言を預かっています。明日の十五時にカンファレンスルームにいらして下さい。医局長が同席して検査の結果をお伝えするそうです」
「わかりました」
紗江子に持ち帰ってやれる朗報はなにもなしという訳か、落胆を手土産に病室に戻った俺に、思わぬ褒美が与えられる。それは、すやすやと眠る紗江子の寝顔だった。