七十一
診療計画書をしっかり読んでなかった俺は、肺や腸の検査を不審に思ったが「病院の方針もあるんだよ」不満を吐き出し続ける紗江子にそう言って嗜める。
「だって、毎年、定期健診は受けてたのよ? 急に病気になるなんて思わないじゃない。タバコも吸うし健康診断も受けてないジュンが元気で、あたしだけこうなるなんて不公平だわ」
「おいおい、俺に八つ当たりしても仕方ないだろう」
「八つ当たりなんかしてないわよ」
明らかに八つ当たりであった。
箸もつけてなさそうな病院食が目にはいる。診療計画書にチェックのあった潰瘍食は見るからに食欲を減退させるような代物ではある。
「食べてないじゃないか」
「なにも食べたくない。まだ胃カメラのぬめぬめした感触が喉の奥に残っていて気分が悪いの。検査のせいで余計ひどくなったみたいだわ、さっきまで咳も止まらなかったのよ。点滴に栄養剤と痛み止めをいれておきますって看護師さんが言ってらしたから、一食ぐらい抜いたって平気よ」
親父も検査を嫌がった。指先から採取するだけの血液検査も毎日ともなれば耐え難い苦痛となるようだ。検査の過酷さに少し我儘になっていた紗江子だが、親父の譫妄よりは随分マシだった。
「とりあえず今日の検査は終わったんだから機嫌を直せよ。後は体調が戻るのを待って治療にはいるんだろう? 通院で済むといいな、ベガはまだ見えないから三連星を借りて祈っておくよ」
「叱られないかしら?」
妙なところで気にする紗江子だった。
「ばれやしないさ。それに彼女は心の広い女性だ。代わりに夏はベガを貸そう。その頃には奈緒子だって嫁に行っているかもしれない」
俺達は星空をすっかり私有化していた。
「君が怒るといけないから先にいっておく。祐二に頼んでお母さんに連絡してもらった。店を休むわけには行かないから定休日の木曜に来るってさ。叔母さんも一緒に来るそうだ。検査結果は俺が聞いておいて伝える」
「よかったのに……。でも、ありがとう。色々迷惑かけてごめんな――、あ、またいっちゃった」
紗江子はペロリと舌を出す。
「今日ははなんだろうと許してやるよ、お姫様。でも、甘やかすのは、いまだけだぞ。俺は若者には厳しいんだ」
「あたしにも?」
「それは……」
愛する女性にとことん甘い俺は言葉に詰まる。
「できないでしょう? わかってるんだから。ねえ、今夜はどうするの?」
してやったり、といった顔で笑う紗江子から不満は出尽くしたようだ。
「スーツと洗面用具を持ってきた。このまま朝までいて、明日はここから出社する。食堂の向こうにソファがあったから、君が寝ついたらあっちで眠る。本もない、テレビも観ないじゃあ退屈しちゃうんじゃないか? 疲れてるなら眠ればいいけど、そうでなきゃ話をしていよう。なんなら、子守唄も歌ってやるぞ」
「子守唄は要らないけど、一緒にいてくれるのは凄く嬉しい。……ねえ、キスして」
「よろこんで」
おそらく雑菌まみれの俺が紗江子の唇に触れるのは好ましくないのだろうが、お姫様のリクエストとあらば拒む訳にはいかない。唇を重ねた途端、健康この上ない俺は他にもあちこち触れたい衝動に駆られる。しかし、薬品の匂いが混じったキスがそれを思いとどまらせた。
「検温でーす」看護師の声に俺達は慌てて体を離した。