六十九
「じゃあ、三時間後に」
「うん、ありがとう。大好きよ」
唇が触れるか触れないかのキスを残し、紗江子は車を飛び降りて行った。
用を済ませ迎えに戻った時、紗江子の顔は少し青ざめて見えた。
「大丈夫か?」
「うん、検査だっていうのに洗濯やお掃除をしたのがいけなかったかしら、また少しお腹が痛くなってきちゃった」
貧乏性も過ぎる。一円安いガソリンスタンドに行こうとして事故に遭うみたいなものだ。紗江子から受け取ったボストンバッグを後部座席に積み込みながら「退院したらきっちり叱ってやるからな」と、俺は心に決めていた。
鵜飼医療センターは井之口市のベッドタウンを見下ろす山裾にあった。国立病院の跡地に立てられた真新しい建物はホテルと見まごうばかり、クロークと書かれた受付で検査入院の手続きを済ませる。そんなネーミングにも近代的な雰囲気が漂っていた。入院申込書の連帯保証人欄に婚約者と書き込むと、紗江子が顔を寄せてきた。「婚約者ですって」と、声にならない声で囁く。馴染み深い柑橘系の香りが広がった。県立病院では散々口にした言葉だが紗江子には聞かせてなかった。例え文字にせよ、関係をはっきりとさせたのが嬉しかったのだろう。痛みを堪えていた紗江子の口元が綻んでいる。対象的に受付嬢は不機嫌そうな顔になっていった。
病室は山側の六階だった。長時間の検査で体調を崩す場合もあるからと、勧められるままに個室を選んだのだった。紗江子に元気が戻ったらまたいちゃいちゃ出来るな――。俺はそんな気楽なことを考えていた。
説明にきた医師は四十代前半と思しき女医で、西尾と自己紹介をした。県立病院での検査結果を基に診療計画書をつくった。それに従って午後から検査を始める。終了は翌日の夕方になる、といった説明を受ける。検査さえ済めば、すべて元通りになる、明日は出勤出来そうだな。そんな医師の説明にも上の空、途中から俺は仕事の段取りを考えていた。
「本でも持ってこようか?」
「検査が終わるまでは落ち着かないからいいわ」
「じゃあテレビのプリペイドカードを買ってこよう。イヤホンは後でもってくるよ。個室だから大きな音じゃなければ必要ないかも知れないけどな」
「テレビは見ないの。素人に毛の生えたようなアイドルか、駆け出しのお笑いタレントしか出てこない番組を観て、何か心に残るものはある?」
「どこかで聞いたような台詞だな」
紗江子は我が意を得たりといった顔になる。
「忘れちゃった? ジュンが斎藤さんにそう言ってたのよ。『本を読め、映画を観ろ、報道番組ですら国民に知らせたくない真実はねじ曲げて伝えられるものだ』あなたの声は低くてもよく通るの、カウンターのこちら側でもよく聞き取れたわ。随分、書き溜めたわよ、ジュン語録を」
「そんなものを書いていたのか、クソ真面目な顔をして」
紗江子は悪戯が見つかった子どものような顔で笑った。確かにテレビは観る価値がない。やたら人数ばかりが多いアイドルグループの番組についてあれこれ語る斎藤を一喝した記憶がある。