六十八
「病院に行く前にお風呂にはいっておきたいの。職場にも連絡しなきゃいけないし……。留守にするなら、ここの管理会社にも伝えておかないとね。少し、後で来てくれる?」
「お姫様抱っこで入浴させる役目は俺にさせてくれないのか? なんならランジェリーも鞄にお詰めしますが」
「エッチ! 部屋には上げないわよ」
「ちぇっ、ご褒美はなしか」
何度か上がり込んではいたが女性専用マンションだ、会話は駐車場に停めた車の中で交わされていた。俺も突然の休暇を願い出た会社に顔を出しておきたかった。不測の事態が起きているとも思えないが、三十分もあれば翌日の打ち合わせぐらいは出来る。病院で一晩過ごしたままの身なりを整える必要もあった。
「入院の準備って、なにを持って行けばいいんだろう……。何日ぐらいになるのかな? 検査入院なんて初めてだし、なにもわからないわ」
楽しい経験ではなかったが、親父の入院が役に立った。紹介状と一緒に渡された鵜飼医療センターの入院案内を紗江子に読んで聞かせる。
「ここに書いてあるよ。着替えだろ、パジャマはボタンフロントがいい。持ってなければ病院の売店で色気のないのが買える。それと日用品、ハブラシやタオルにティシューにスリッパ。あ、コップもあった方がいいな。保険証も忘れるなよ。足りないものがあれば後で俺が届けてやる。管理会社にはヒゲオヤジが出入りするからよろしくと言っておくんだぞ」
「みんなに迷惑かけちゃうなあ。ジュンみたいに優しいひとばかりじゃないから次の出勤が憂鬱だわ」
「参事かい? ヤツにはなにも言わせないさ。とにかく今は自分の体のことだけを心配してろ。この機会に原因をつきとめてしっかり治すんだ。そうでないと奥さんになった君をこき使ってやれないからな」
「そうやって昨日からあたしを脅してばっかりね、プロポーズを後悔してるの?」
紗江子は真顔になって訊ねてくる。
「こんなに手間のかかる女じゃあ他に貰い手はないだろう。気は変わってないから安心しろ」
「――大好きよ」
紗江子が低いセンターコンソール越しに抱きついてきた。
「ディト……、同じく」
『Ditto=同じく』は映画ゴーストで何度となく出てきたフレーズだが、洋画音痴の紗江子が知っているとも思えず言い直す。
「なにか食べたいものはないか? 迎えに来る前に買って来てやるよ」
互いの額をくっつけたまま、俺達は話し続けた。
「今は食べるのが少し怖いの、お腹は空いてる気がするんだけど……。お金はどのくらい持って行けばいいのかしら?」
「親父の時は月締めの請求だった。必要なら俺が立て替えておくよ」
「勝手に払ったりしちゃだめよ。キャッシュカードを預けておこうかしら」
「俺のスーツがイタリア製になってたりしてな」
「やーめたっ」
不自然な体勢が辛くなってきた頃、紗江子が体を引いた。こんなやりとりは普段となにも変わらない。