六十七
四時間ほど眠っただろうか。赤ん坊をあやすように俺の背中をトントンと叩く手に気づいて目が覚めた。
「あ……、おはよう」
「おはようございます。そこ、よ・だ・れ」
俺がうつ伏さっていた付近に五センチ程度の染みが出来ている。上半身を起こしていた紗江子が嬉しそうに指を差していた。
「君が心配で夜通し泣いていたんだぞ、涙の痕だよ」
「嘘おっしゃい、すごい鼾をかいていたくせに。猛獣みたいだったわよ。それなのに寝顔は少年みたい、あなたって本当に不思議なひとね。この先もたくさんの驚きが発見できそうで楽しみだわ」
「任せとけ、嫌っていうほど驚かせてやる。こんなひとだとは思わなかった、って離婚を申し出ても応じてやらないからな」
「そのままそっくり同じ言葉をお返しします。あたしも猫をかぶっているだけかもしれないわよ」
にこやかに切り返す様子はいつもの紗江子だ、かすれていた声も元に戻っていた。
受付で紹介状を受け取り、世話になった旨を伝え駐車場への道のりを肩を並べて歩く。紗江子が腕を絡めてきた。
「病院に運ばれなかったら今日は逢えなかったのよね。なんだか得をした気分だわ」
清々しい顔で俺の顔を覗きこんでくる。
「あれだけ痛い思いをして、得もないだろう」
「いいの。こうしてジュンと一緒にいられるんだから。これで検査がなければ最高なんだけどなあ」
朝の陽射しが道路わきに積み上げられた雪塊を融かしてゆくように、俺の中に鬱積した不安も小さくなってゆく。鵜飼医療センターでの検査もニ~三日で終わるだろう。今後は彼女の様子にもう少し気を配るようにしよう。腕一本折ったことさえない俺は健康の物差しがひととずれている事を認識すべきだ。考えに耽る俺の顔を再び紗江子が覗き込んだ。
「なにを考えてるの?」
「なんでもないよ」
俺は紗江子の腕に自分の手を重ねて言った。