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六十六

 当直医の説明があると看護師に呼ばれ、カンファレンスルームと書かれた部屋にはいる。三十代半ばぐらいだろうか、髪を七三に分けた実直そうな医師がカルテらしきものを眺めていた。投影機には数枚のレントゲン写真が挟んである。

「お父様ですか」

 ドアを開けた俺に医師が言った。彼より明らかに年上の俺が婚約者であるとは言い辛かったが、話を聞けないのでは意味がない。「いえ、婚約者です」と、正しい関係を伝える。

「そうでしたか、それは失礼しました。わたしは当直医の佐伯と申します」

 勤務医の労働条件は過酷だと聞く。佐伯医師の表情にも疲労の色が見てとれた。

「それで患者さんなのですが、腹痛や吐血は依然からあったのですか? 嘔吐はどうでしょう」 

「いえ、腹痛は食べすぎた時に起きる程度だと聞いています。吐血も失神も今回が初めてだと思います。嘔吐も……、私が知る限りではありません。ですが一緒に生活している訳ではありませんので――」

 医師は「そうでしたか」と言って考える顔をした。

「すべての検査結果が出ていない現状で安直な診断は下せません。しかし、これから判断しますと、もっと早い時期に自覚症状があったはずなんです。どうして医師に診せなかったんでしょうね。腹痛も我慢出来るレベルではなかったと思うのですが」

 これ、と指先で叩く検査結果が記されているはずのカルテに目をやる。若い医師らしく英語での記述だったが、素人の俺に記載された内容も数値が示す意味もわかるはずがない。

 記憶を辿ってみる。たった二ヶ月でも紗江子と過ごす時間は短くはなかった。二人で朝を迎えた日も何度かある。しかし彼女が俺にそんな素振りを見せた記憶はない。もしかするとラーメン屋での不機嫌もこのせいだったのだろうか。中華料理店での細い食欲は? 痛みを堪えて笑顔を見せてくれていたのか、俺は自分の愚鈍さを腹立たしく感じた。

「胃潰瘍ではないのでしょうか?」

「その可能性もあります。ですが、わたしは専門外でして――。本来ならこのまま入院していただいて専門医の判断を仰ぐのが一番なのですが、看護師が申し上げた通り当院は満床で受け入れが不可能なんです。こちらへの転院をお勧めします」

『鵜飼医療センター病院案内』と書かれたパンフレットを渡される。この部屋にたどり着くまでに俺は病棟の廊下にはストレッチャーに寝かされ病室が空くのを待つ人々の姿を目にしていた。紗江子をあんなところに寝かせておく訳にはいかない。

「わかりました。本人に相談してみますが、その方向で進めていただいて結構です」

 佐伯医師の提案に同意する。本音をいえば親父の最期を看取ったこの病院に紗江子を入院させるのは気が進まなくもあった。

「あちらは消化器系の権威である神代先生が医局長を務めておられます。先ほど連絡しましたところベッドにも空きがあり、明日にでも専門的な検査が可能だと言われました」

 渡された病院案内の地図からおおよその地理を頭に描く。ここから十キロ程離れてはいるが、新しく繋がった環状線を走れば、さほど遠いともいえない距離だ。

「状態は安定しておられますし、明日には退院していただいて結構です。入院の準備をしていかれて下さい。紹介状を書いておきます」

「入院? 検査ではないのですか」

「検査の結果次第だとお答えしておきましょう。入院になる可能性は高いと思われます」

 奥歯に物の挟まったような言い方が気になったが、それ以上、語ることはないとカルテを閉じる医師の姿に俺は言及を諦める。専門医の診断が下される前に一喜一憂するのもバカげてると思っていた。

 病室に戻ると紗江子は小さな寝息を立てていた。気を失う前の苦悶の表情とは打って変わった安らかな寝顔には、俺の不安を吹き飛ばすだけの力があった。佐伯医師はああ言ったが、毎年の健康診断で異常なしと言われ続けているのだ、重病であろうはずがない。俺も少し寝ておこう。座り心地の悪い椅子を引いて、ベッドの隅に頭をあずける。俺は瞬く間に眠りに落ちていった。


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