五十九
「なにが食べたい? このところ麺類が多かったから、ボリュームのあるものにしないか。焼肉はどうかな? 美味い店を知ってるんだ」
美術館の地下駐車場で俺はそんな提案をした。焼肉が下品だとは言わないが、アカデミックな場所で話題にするのは少々気が引けて、ここに降りてくるまで口にするのを我慢していたのだ。
「あたし、あまり食べられないかもしれない。もともと小食だったせいなのかな? 最近、たくさん食べると胃が痛くなっちゃうの」
「風邪でも引いたんじゃないのか?」
彼女の額に手を当てようとして思い直し、俺は額を合わせた。紗栄子は少し驚いたような顔をしたが、そのまま唇を重ねても拒むことはなかった。
「熱はないでしょう? 喉の痛みもないの。きっとジュンと美味しいものばかり食べ歩いていたから胃がびっくりしちゃったのね」
紗江子はにっこりして言葉を続ける。プラネタリウムでの不機嫌は直っていた。
「風邪だったら、いまのキスでうつっちゃったかもしれないわね」
「君のひ弱なウィルスぐらい跳ね返してやるさ」
まだ、元カノとのやりとりのクセが抜けない。こんな状況で必ずと言っていいほど口にした言葉がつい出てしまう。
「ジュンはいつもあたしのこと、ひ弱とか細いとかいうけど、こう見えて案外、丈夫なのよ。ここ数年、風邪だって引いてないし、毎年の健康診断でも何の異常も見つかってないわ」
紗栄子はか細い腕を曲げてみせた。彼女の職場に定期的に列をなして停まっている検診バスが思いだされ、気になったことを訊いてみる。
「健康診断ってさあ、どこまで脱ぐのかな」
「?」
俺の問い掛けの意味がわからず、紗江子は小首を傾げる。
「いや、ほら……、聴診器とか当てたりもするんだろ?」
質問の意図を理解した途端、紗江子は大きな声で笑った。
「バカね、お医者さんに妬いてどうするのよ。女子職員は女医さんが診てくれるし下着まではとらないわ」
さっきは何でも知っているみたいだといい、今度はバカと言う。本当のところ俺は一体どう思われているのだろう。
「妊娠だったらどうする?」
意味ありげな笑みと共に、安心した俺を再び緊張させるような台詞を投げかける。この手法は女性全般が得意としているもののようだ。
え? 一年にふたりの女性を妊娠させちゃいましたか――。勿論これは声に出せない。ただ、芽生えた命を摘むような真似だけは二度とするまいと心に決めていた。