五十七
「この絵……、見たことある」
紗江子が俺の耳に顔を寄せて囁く。一時期、写真週刊誌の表紙に使われていたのを記憶にとどめていたのだろう。
「エアブラシにアクリル画材を使うのが彼の特徴だね。確か版画もあったはずだ。並べたキャンバスのサイズを変えたり折りたたんだりして3Dっぽく見せる技法は、描かれて何十年か経った今でも新鮮だろう?」
「へえ、ジュンって絵画にも詳しいのね。知らないことがないみたい」
紗江子は感心したように俺の顔と絵画を交互に見つめていた『蘇える刻』そうタイトルのつけられた作品の前で俺は腕組みをしている。
実のところ俺は絵画にさっぱり興味がない。紗江子が行きたいと言った美術館で、たまたま俺の知っている画家の催しをやっていたので誘ってみたに過ぎない。解説は百パーセント昔交際していた美大生の受け売り、お茶の一杯も供されないところに八百円の入館料を払って来てやっているのだ。その程度の役得は許されてもいいはず。
ドガがどうの、ルノアールがどうのと、さっぱり俺の頭にはいってこない講釈を垂れる美大生について歩く絵画展は退屈この上なかった。絵の前に立ち止まり、じっと眺める人々が何を考えているのかも理解出来ない。俺にとって絵画は、女性が描かれていれば「あ、女性だな、少し太っていないか? 俺の好みではないぞ」そして風景が描かれていれば「ああ、風車だな、オランダか?」と、その程度の感慨しかもたらさない。
珍しく俺の口数が少ないのは絵画に酔いしれているのではなかった。美大生の部屋にあったルネ・マグリットの画集に落書きをして大喧嘩となり、それが原因で別れてしまったことをボンヤリと思いだしていたせいだ。その時は、なんて心の狭い女性なんだ、と思ったものだが、冷静になって考えてみると九十五対五ぐらいの割合で俺が悪かったような気がする。
これ以上、居座るとボロが出る。そう判断した俺は、敷地内にあるカフェテリアに紗江子を誘った。三十分に満たない鑑賞時間に抗議が起こるかとも思ったが彼女は素直に従う。とりたてて絵画に興味があった訳でもなかったようだ。美術館という場所でアカデミックなデートを楽しみたかっただけなのかもしれない。
「凄いなあ、ジュンは。あたしなんかゴッホとかピカソぐらいしか知らないわ。それだって絵だけ見てわかる訳じゃない」
美術館の中庭には無名の作家デザインのオブジェやベンチが並ぶ。俺達はそれを見下ろす窓際のテーブルに席をとった。
イルカが印象的な絵がカフェの壁にかけられていた。俺はそれを指差して言う。
「ラッセンは知ってるだろ? モチーフの特徴的な彼の作品なら絵だけ見てたってわかるはずさ」
これも別の元カノに教わった知識だ。かくも俺とゆう人間は浅はかだ。そこに重厚感をもたせようとするから余計な苦労を背負い込む。
「科学博物館もあるみたいよ。あたし、プラネタリウムに行ってみたい。小学校以来だわ」