五十五
「離れなきゃいいさ。おふくろは君を気に入ってるし、娘達だっていつかは嫁に行く。結婚しなくたって一緒にいられる方法はきっとある。お母さんの世話もこっちですればいい。うちは家だけは広いからな。そうだ、会社の後輩で両親の果樹園を継ぐために実家の中ノ原市に帰った奴がいるんだ。独楽場って町を知ってるかい?」
こんな場面ですら結婚を肯定する言葉は、俺の口から出てこない。
「あたしの生家から二十分ぐらいのところだわ。そこがどうかしたの?」
「ご両親が手を広げすぎて面倒が見切れない。山を安く譲るから梨の栽培をしないかって言われたことがあるんだ。俺には肉体労働の方が向いているのかもしれない」
俺は右手を曲げてチカラコブを誇示した。
「肉体労働って言えば……、ジュンってスポーツジムでも通っているの?」
「どうして?」
「あたしの職場の四十代で、あなたみたいなひとはいない。お腹がぽっこり出ているか、線の細い神経質な感じのひとばかり。駐車場の雪掻きをした時だって五分もしたら息を切らしていたわ。君達のほうが若いんだからって、女子職員まで駆り出されたのよ。でもジュンはこんなに逞しい」
「君の要求は厳しいからな。俺はちゃんと応えられてたかい?」
この時の俺の顔は見たくない。エロオヤジ――きっとそんな表現がぴったりだったはずだ。
「知らないっ!」
何度か体を重ね合ってはいたが、今でも紗江子は耳を赤くして恥ずかしがる。愛おしさがこみ上げる瞬間だ。
「仕事も不規則だし、ジムに通う時間はないよ。畳一畳あれば出来る筋トレを日課にしてるだけさ。今更、なにをする訳でもないからな。体形の維持と、恥ずかしながら四十肩の予防ってところかな」
「あっ、ごめんなさい。今日はお仕事大丈夫だったの?」
「君の招集は拒めない。なんせ俺はランプの精なんだから」
最近読んだ本の一節だった。そのフレーズをいつか使ってやろうと思っていて、機会の到来に嬉しくなる。なんて単純な男なのだろう、俺ってヤツは。
「恋人で、父親で、ボディガードで、ランプの精か――、忙しいわね。でも、その筋トレだけで誰もがこんなふうになるものなの?」
「どうかな、骨格の形成は、ほぼ成人までに終わってしまうっていうからね。脂肪ならいくらでもつくだろうけど筋肉となると、骨格の要求する以上にはついてくれないのかもしれない。勉強を頑張った連中には学ぶための基礎が出来るだろう? そっちの苦手な俺は、こっちを頑張るしかなかったんだよ」
「そうかなあ、あなたは英語も話すし、なんだか複雑な計算式が書かれた書類でお仕事もしている。あたしから見ればなんでも知っているように思えるわ」
――あれか、俺に英会話スクールの経験はない。テレビの英会話入門と、映画の英語字幕から学んだそれはかなり怪しい。だから褒められると余計に気恥ずかしくなる。
「あれが通じる俺が不思議に思ってるよ。一度、傍で聴いててみろ、それはひどいブロークンだから。会話ってのは伝えようとする意志が成立させるもんなんだ。君も勇気を出して話しかけてみるといい、その気になれば身振り手振りだけでもちゃんと伝わる。そんなふうに生きてゆく上で必要な知恵は知らないうちに身についてゆくものさ。俺のそれが君より、えっと……」
俺は引き算をしていた。
「――十四年分多いだけだ」
「暗算は苦手みたいね」
紗江子が吹き出した。違いない、関数電卓とエクセルの自動計算に頼り過ぎた俺の暗算能力は小学生以下となっている。
「土曜日は美術館に行こう。三尾公三展をやっているそうだ。少し仕事が溜まっているからランプの精は週末までお休み、面倒を起こしてくれるなよ」
「はーい、気をつけまーす」
おどけて挙手をする紗江子から脱力感は去っていた。
「もう帰らないといけない? 祥子さん達が心配?」
「いや、彼女達は俺がいない方がのびのびとしているらしい。下手すればもう母屋は戸締りされちゃってるかもな、どうしてそんなことを訊くんだい?」
饒舌だった紗江子が急に口ごもる。
「週末まで逢えないんでしょう? だったら……」
「だったら、なんざましょ?」
紗江子の意図を汲み取った俺は、ニンマリとして訊き返す。
「いじわるっ!」
彼女が抱きついてきた。そしてそれまでの会話がインターバルとなって俺は元気を取り戻していた。頭の中で第四ラウンド開始のゴングが打ち鳴らされる。