五十四
「もうだめ……手にも足にも力がはいらない。あんな感覚初めてだわ、体がふわーっと浮き上がる感じがして無重力みたいに落ちていくの。あたし、どうなっちゃったのかしら」
紗江子の白い背中が大きく波打っていた。
「待って、待って、って叫んでたよな? 隣の部屋まで聞こえそうでひやひやしたよ」
「えっ、そんなに?」
「冗談だ。でも、職場じゃあ聞けないボリュームだった」
俺はニヤニヤして耳に突っ込んだ人差し指をぐるぐるさせる。
「ばかー」と、振り上げる手にも勢いがない。前回は確証がなかったが、この夜、紗江子は間違いなく大人の女性になった。
「ねえ……、ジュン」
「なんだい?」
「あたし、ジュンがいなくなったらすごく困るわ。雪の多い季節は部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたのに、今はどこにでも連れていってもらえる。バイクにも乗せて欲しい。美術館にも行ってみたい。パソコンも教わりたい。こうして、もっと愛されたい。ラーメン屋さんでナオコさんのことをしつこく聞いたのもそのせいなの。この幸せがあなたと一緒に消えちゃいそうに思えて――」
困る……か、もう少し気の利いた表現を思いつかないものか、読書家のくせに。
「奈緒子にとって俺は過去の亡霊に過ぎない。君が心配するようなことは起きないさ。もし俺が彼女に逢う日が来るとすれば、それは約束した地球最後の日だ。その時は君も一緒に連れてゆく」
「本当?」
「ああ、だから心配するなって。ただもう少し情熱的な言い方はないものかな、あなたが居ないと生きて行けないだとかさ」
俺は先ほどの不満を口にした。
「だって本当にそう思ったんだもの。気に入らない? 言い直したほうがいい?」
ここで「言い直せ」などと言う男だったら紗江子は惚れない。そして俺もそこまで傲慢ではない。
「いや、その必要はない、俺も同じ気持だよ。俺を必要としてくれる君がいないと困る」
「不思議ね。ほんの数年前まで生きてゆくだけで必死だったあたしの人生が、とても豊かになったように感じられるわ。すべてが新鮮でやりたいことも行きたいところもいっぱい増えた。あたしね、短い期間だったけど交際した人が居たの。でも、こんな気持にはならなかった。もうジュンから離れられないかも」
恋愛の魔力に魅せられれば誰もがそうなる。一度きりの人生に於いて俺が求め続けるものは地位でも名誉でも金でもない。ただただ、理想の恋愛であり理想の恋人だった。