五十三
「条件があるわ」
「条件?」まだ、俺を振り回すつもりなのか……
「セックスしましょう」
へ? その昔流行ったトレンディドラマのような台詞に面食らいはしたが、俺に異存などある訳がない。封筒をヒラヒラさせながらふざけて訊いてみる。
「俺はこれで君を買うのか?」
「バカね、そんなんじゃないわよ。あたしが誘ったんだからホテル代はそこから出すの、それが条件。正直にいいます、あたし、ずっとセックスが苦手だったの」
初体験があれだったのだから無理もない。「バカね」と二度もいわれたのは心外だったが、俺は黙って次の言葉を待った。
「でも、この前言ったでしょう。死んじゃうかと思ったって。これが本当に愛し合えてるってことなんだ、恋人同士ならこんな感覚を共有することができるんだって思えた。とても幸せだったわ」
紗江子の瞳にはある期待が感じ取れた。
「頑張るよ」
「あれ以上、頑張られたら本当に死んじゃうわよ。普通でいいの。ねえ、あなた本当に四十歳なの?」
言葉面は非難めいていてもこれは賛辞である。俺に尻尾があれば間違いなくブルンブルン振っていたはずだ。
しかし――である。元カノとの別れを女々しく嘆き悲しんでいた昨年ならともかく、今の俺の瞳に哀しみなんぞあろうはずはない。少なくともルームミラーに映る俺の眼は、次なる出来事を期待して能天気な灯りを宿すのみ。『まりもっこり』なる栄養ドリンクに描かれたキャラクターみたいな眼になっていた。わかりやすくいえば細めの下弦の月が二つ並んだようなものだ。
巧みな誘導で思わぬ告白までさせられてしまったが、彼女自身の不機嫌から険悪になった仲をなんとかしよう、そんな紗江子の小芝居にのせられてまったような気がしてならない。俺はこんな手に何度もひっかかっている。策士なり、汝の名は〝女性〟
ホテルに向かう車の中で紗江子がいった。
「お節介で思いだしたことがあるわ。ジュンが一番初めにあたしに言った言葉を覚えてる?」
「朝の挨拶以外でかい? 覚えてないなあ、苦情かな?」
前に述べた通り、特に意識していなかった紗江子だ。六年前にどんな言葉をかけたかなんて覚えているはずがない。
「ううん、あたしはハッキリ覚えてる。『余計なお世話かも知れないがいっておく。君はきれいなんだからもっと胸を張って歩くべきだ。見ていて姿勢の悪さが気になった』あなたはそう言ったのよ」
「……いったかも知れないな。ごめん、その時は足のことを知らなくって」
俺は自身の粗忽さを恥じた。知らなかったとはいえ『夏でもサンダルは履けないわ』と語った紗江子が、俺の言葉に傷つかなかったはずがない。
「違うの、きれいだなんていわれたことがなかったあたしは驚いたのもあるけど、それを怒ったように話すあなたが、とてもおかしかったの」
「君はきれいだよ、それは俺だけじゃなく誰もがそう思っているはずだ。軽薄だと思われたりするのが嫌で口にしないだけさ。照れもあるだろう。俺はいいたいと思ったら我慢出来ず口に出してしまう。良かれと思って口にした言葉が、誰かを傷つけていることもあるんだな、注意するよ」
「うん、他の人には、きれいなんていっちゃだめ」
――そっちかいっ!
「努力する」
――自信はなかった。
満天の星空を仰ぎ見て、春の桜並木を眺めて、誰もが躊躇うことなく『きれい』と口にする。ひとはもっと素直に感情を表現しても良いのではないだろうか。この時、俺はそんなことを考えていた。