五十二
いや、どれって物じゃないんだから……
「これは誰にも話したことがない、というよりも奈緒子と別れて初めて気づいたことなんだ。俺が誰かにする親切は君が想像するようなもんじゃない。わかりにくいかもしれないけど、バタフライエフェクトを期待しているんだ」
「小さな要素の組み合わせが未来に大きな影響を与えるって、あれ? それがあなたの行動とどう関係があるの?」
カオス理論まで知っていたか、正確には『簡単な方程式を実行して、その結果が予測不可能になる』がその定義とされているが、紗江子の解釈も間違ってはいない。さすが読書家だ。
「願いを叶えてあげられなかった奈緒子に、夫としての務めを果たせなかった悦子に、この世に迎え入れてあげられなかった命に、謝罪したくてもどこに居るのかわからない人生の回り道をさせてしまったたくさんの人達に、俺のお節介が形を変えて届けばいい。そう思っている。罪悪感だよ、君の言う哀しみってのはそれなのかもしれない」
「眼に映るすべての困っているひとを助けてたら、自分の生活を失ってしまうって言ったのはあなたじゃない。そんなことが出来ると思ってるのなら傲慢よ」
「傲慢か、とりようによればそうなんだろうな。ただ俺の場合は違う、気が小さいだけだ。俺のせいで誰かが不幸になっているかも知れないって考えると罪悪感で圧し潰されそうになる。その強迫観念が、ああさせてるんだ」
話す俺を見つめていた紗江子は再び視線を前方に向けて黙り込んだ。単なるジェラシーだったのか、それともいまの告白に俺という人間の底が見えてがっかりしたのか、盗み見る表情だけではなんとも判断がつかない。
「……バカね」
暫くあって、紗江子がふっと笑うように言った。その口調から、刺々しさは消えていた。雪が止み、折からの月灯りに照らし出される表情は和らいでいるようにも見える。
「うん、よく言われる。嫌いになったか? 自殺しちゃうぞ」
調子に乗る俺に彼女は小さくクスリと笑ったが、キスはしてくれなかった。
「わかったわ、気長に待ちましょう。でもあなたの瞳から哀しみを消し去るのはあたしの役目、それは忘れないでね」
「浮気はしない」
「そんなこといってないじゃない、するつもりなの? そういえばさっきのウェイトレスさんを見る目が怪しかったわ」
「おいおい、いいがかりだよ」
「冗談よ」
ホッとさせてはまた慌てさせる。女性はこういった駆け引きが非常に巧みである。
「じゃあ、これは収めてくれるね」
封筒を差し出す。紗江子はそれを手にしかけて止めた。