三十七
俺がいまの会社に入社して間もない頃の話だ。あるメーカーから請け負った自動車部品の設計図面が他社の知るところとなった。つまり、機密の漏洩があった訳だ。折りも折、『絶対に別れないから』と会社にまで押しかけてきた女性が居た時期(これは自業自得だと認めよう)で、当時の営業部長は『プライベートが杜撰な奴は仕事も杜撰だから困る』と、まるで俺が図面を流出させたかのような言い草で設計の現場に責任をなすりつけてきた。頭にきた俺は、まだ健在だった大山の父にその調査を頼んだ。優秀な調査員は依頼からたった五日間で犯人を確定――営業部長の懐刀と目された課長だった――その上、『設計の会社である御社です。図面が営業部を通過する必要はないでしょう』と、簡潔かつ明瞭な報告書を俺に手渡してくれた。なるほど、と思った俺はそれを上司に提言する。そしてその一件が常務の知るところとなり「今後は機密漏洩対策も重要だな」と、遊軍のような部署が総務課内に設立される。調査の依頼以外、なんの働きもしていない俺だったが、常務が褒めていたとの噂に、ひとが書いた図面の手直しに明け暮れるポジションからの脱却を期待した。しかし、その新設された部署に配属されてしまうのだから、人生とは皮肉なものである。
紗江子が戻る前にと、早口で依頼内容を大山に伝えた。
「カジさんが戻ったら伝えておこう。細かい打ち合わせはセキュアのかかったメーラーでやりとりしてくれ。しかし九年前の事件か……。取材できる人間がどれだけ残っているかが問題だな、期限は?」
大山が挙げた名の持ち主――カジさん――が、その優秀な調査員であることは、いまさら説明の必要もないだろう。名刺を持たない彼が『梶』なのか『加地』なのかはわからない。俺や大山と同じぐらいの年格好の、えらく無表情で身体的特徴にも乏しい男だった。報告書を受け取った時、そんな印象を抱いた俺に「なんの変哲もない男だと思われましたか? あちこちに顔を出して調査する仕事には、なるべく人目にとまりにくい、こんな風体が向いているのです」と、抑揚を全く感じさせない声で彼は伝えてきた。思考を読み取ったかのような言葉に俺は随分と感心させられたものだ。
「早ければ早いほどいい」
「当時の出納責任者でも見つかればいいんだがな、頼んでみよう」
俺が依頼した調査は中ノ原市の汚職事件に関するものだった。あれだけの逮捕者と免職者を出し、数億円が動いたといわれる事件にしては、ビッグネームがひとつもでてこなかったのが気にかかっていた。例の市会議員の自殺の時期とも重なる。少女をレイプするような男――本音と建前の使い分けに長けた政治屋――が、妻に責められたぐらいで自殺などするものだろうか? そんな疑問もあった。そこには必ずなんらかの繋がりがあるはず、それが判明すれば、まだ決着を迎えていない魚男問題の解決にも役立つはずだ。
紗江子が戻った時、既に一時間が経過していた。実際に調査にあたる訳ではない大山には、大まかな説明をすればこと足りる。客への対応に数回席を立ったが、彼と語る共通の友人の近況や昔話が、紗江子のいない時間を長く感じさせることはなかった。
「ごめんなさい。一年ぶりに話す叔母だったから、つい長引いちゃった。祐ちゃん……魚君は帰ってないみたい。今夜も泊めてもらっていいかしら? 明日の朝早くに中ノ原市に行ってこようと思うの」
勿論! 今夜こそ愛し合おう、肉体的にも精神的にも。俺は心の中で歓声をあげた。