三十六
「まさか、あのままを口にするとはね。ヤツの面喰らった顔ったらなかったな」
笑いが収まった俺は、紗江子のジョークを称賛する。
「単に爪の長い男性が苦手なだけよ、あのひとがそうだったの。トラウマね。大山さん、気分を悪くされてないかしら」
一瞬、過去に思いを馳せるような目をした紗江子だったが、すぐ心配そうな顔になって厨房の大山を見やる。
「あの程度で傷つくようなタマじゃない。ヤツの心臓には俺のヒゲと同じぐらいの毛が生えてるんだ。心配いらないさ」
「だったらいいんだけど……」
それでもまだ不安げに厨房に視線を向ける紗江子と大山の視線が交わる。大山はサイフォンを掻きまわす棒を持ったまま、にこやかに手を振ってきた。
「なっ? ああいう奴なんだよ」
「良かった――」
ようやく俺に向き直った紗江子が安堵の笑みを浮かべる。大山の注いでいったお代わりのコーヒーを飲みながら。俺たちは他愛のない話に戻っていった。ただ、魚男の件を口にするのだけは、何故だか憚られた。
突然、窓の外を眺めていた紗江子が声を上げる。
「あっ、公衆電話があるのね。携帯の充電が切れそうなの。少し電話してきていいかしら?」
店の向かいにあるNTTの建物の隣には、今や珍しくなった電話ボックスがある。
「俺のを使えばいいじゃないか、外は寒いぜ」
「ううん、大丈夫」
なにがどう大丈夫なのだ。上手い言い訳がみつからない時の彼女の口癖だった。電話料金を気にしたのでもないはず、俺は別の可能性を考えていた。
客の注文をこなし終えた大山が戻り、紗江子が座っていたソファに腰を下ろす。
「若い女性の温もりが伝わってくる」
いけしゃあしゃあとぬかしやがった。
「ところで相談がある。いや、相談じゃなく仕事の依頼だ、あっちのな」
俺がここに来た本来の目的だった。厨房の奥にある隣室への扉を指差して告げる。
大山の両親は興信所を経営していた。そこそこ固定客もついおり、父親が亡くなった後もそのまま廃業してしまうには惜しいということで、調査員を一人だけ残し、引き継いでいた。喫茶店の隣の小部屋をそのままオフィスにしてある。注意深く見れば、店の看板の隣に小さく『大山興信所』と書かれているのに気づくだろう。