三十五
「見て、まだこんなに手が震えてる」
紗江子が細い手首を俺に差し出してみせる。
「だろうな。打ってる最中は気づかないけど、意外と体力を消耗するんだよ。あれ以上、続けていたら明後日からの業務に支障がでたかも知れない。ペンを持つ手が震えていたら仕事になんないだろ」
「そうなんだ、でも気持良かったわ」
たっぷりのクレマが表面を覆う美味いコーヒーを飲ませてくれるカフェのテーブルで俺達は向かい合っていた。オーナーは俺の幼馴みである大山という男だ。学生時代にふたり、彼の妻となった女性とも一度きりだが関係のあった俺なので、都合三人の女性をこいつに略奪(長身で甘いマスクの大山に女性達が勝手になびいただけなのだが)されている。
早い時期に結婚し、女遊びに終止符をうっていた大山に、俺は若い恋人ができる毎に見せびらかしに連れてくるようにしていた。さすがに妻がいたころはそんな真似もできなかったが、独身となったいまなど堂々としたものだ。俺はそれ程、狭隘な男なのだ。
「コーヒーのお代わりはどうかな? あっ、きれいな娘じゃないか、紹介しろよ」
ガラス製のポットを手にして大山が厨房から出てくる。
「近寄るんじゃねえ! 純粋な紗江子が汚れるだろうが」
俺の苦情を無視して、大山が紗江子に話しかける。
「サエコさんっていうんだ、こいつの友人の大山です。今後ともよろしく。うちのコーヒーは如何?」
「とっても美味しいです。中尾紗江子といいます。お噂はジュンからかねがね」
軽く頭を下げて紗江子が微笑む。
「こいつの言うことは信用しちゃいけないよ。僕を悪くしか言わないんだから」
誰が『僕』なんだよ、気取りやがって。俺は大山の顔にタバコの煙を吐きかけた。
しかし、ヤツはそんな俺の抗議行動を気にとめる様子もなく、慣れ慣れしくも握手を求めるように紗江子に右手を伸ばしてきた。
「そんなことないですよ。大山さんの淹れるコーヒーは日本で二番目に美味しいからって連れてきてもらったんです。それに手を触れただけで女性を妊娠させる特技の持ち主だとも聞いています。だから、握手は遠慮させて下さい」
ここに来る途中話したジョークをそのまま口にする彼女に、俺は拍手喝采を贈る。
「手厳しいな」
差し出した手の行き場を失い、そのまま鼻の横辺りを掻いていた大山だったが、新たにはいってきた客の注文に応えるため厨房に戻っていった。