三十三
「まずは、お手本をお見せしましょう」
ケージに入った俺は、備え付けのバットで数回素振りをくれてから、ネットの向こう側に立つ紗江子に言った。
「頑張って! 負けないでね」
紗江子は隣で快音を響かせるジャージ姿の中学生を目で指し示し、軽く曲げた両手の拳を握りしめて俺を鼓舞していた。どこかのプロ野球チームのなんとかいう監督がよくやる仕草に似ている。
スカッ! 気分爽快の擬音ではない、見事な空振りであった。生来の負けん気と紗江子の挑発に大口を叩いてみせたものの、およそ十年ぶりのバッティングセンターである。ブランクは大きい。
「あっれえ?」からかうような口振りで紗江子が言った。
昔とった杵柄だ、なんとかなるだろうとの目論見だったのだが、十球ほどを費やして杵の在処を探す羽目となった。まぐれ当たりのドン詰まりは、広いスイートスポットを持つ金属バットをして俺の手を痺れさす。短いインターバルで肩や膝の使い方を思い出しながら微調整を繰り返した。
快音と共にライナー性の打球を弾き返せたのは十五球目ぐらいだっただろうか。ようやく本来のスイングを取り戻した俺は、その後もヒット性の当たりを続け、なんとか面目を保ってケージを出た。
「すっごーい、最後のなんかあそこのホームランってところに当たりそうだったわよね」
ピッチングマシンの後方、二十メートルぐらいの高さに掲げられたホームランゾーンを紗江子が指差す。
「あはは、井ノ口市のBと呼んでくれたまえ」
俺は胸を張って贔屓球団の長距離打者の名前を挙げたが、野球に疎い紗江子は「誰、それ。イチローさんより強いの?」と、トンチンカンな言葉を返してくる。
「君の番だ」そういってグリップとスイングの基本だけを教えて送りだす。しかし、いわゆる着払い、ボールが後ろのラバーシートに届く頃にスイングを始める彼女のバットに、まぐれでもボールが当たるはずがない。場所を変えて観察すると、バットを振りだす瞬間に目を閉じてしまってさえいる。
「きゃー!」「いやーん」「ちょっと待ってえ!」所変われば、艶かしくも聞こえそうな彼女の悲鳴が俺の苦笑を誘った。
「当たらなーい、手が痛くなっちゃった」
「コーチしようか?」ケージを出た彼女に、なにも言わずに見守った俺が言う。
「うん、このままじゃ引き下がれない。ジュンに打ててあたしに打てないはずがないわ」
野球経験者の俺とド素人の自分が張り合おうというのだから、身の程知らずにも程がある。
「俺を信じるかい?」
「打てるようにしてくれるなら」
紗江子は意地になっているようにも見えた。
「じゃあこれを一分間でできるだけたくさん読んでみて」
読みかけて車に放り込んであった小説を渡す。いつだったかテレビでみたメソッドで、速読で集中力と動体視力を高める方法だった。