三十
台所からおふくろが紗江子を呼ぶ声が聞こえる。
「はーい、いま行きまーす」
じゃあ、そうゆうことで。と、彼女が踵を返す。そうゆうこともなにも、おふくろに逢ってから今までの経緯が端折られているじゃないか。しかしトラブルになっているよりはマシか、俺はそう考えることにした。こうゆうところは至って割り切りのよいのが俺の特徴でもある。
妻が去って以来、俺は朝食をコンビニで買う調理パンとコーヒーだけで済ませていた。料理の盛られた皿がテーブルに所狭しと並んでいる様は圧巻だった。耳が遠く、エピソード記憶に障害の出始めたおふくろだが、庭の手入れを欠かすことはない。そのため俺や孫である娘質と一緒のテーブルに着くことは少なかった。それが、この朝はにこにこしながら座っている。
「いい子ね、結婚するつもりかい」
紗江子が席を立った時、おふくろが声を低くしていった。俺は危うく口に入れたものを吹き出しそうになる。
「そんな訳ねえだろ、まだ悦子(別れた妻の名前)と別れて二ヵ月にもなんねえんだぞ。それにあの子は祥子(長女の名前)と幾つもかわらない。彼女がそんな話でもしたのか?」
「そうじゃないけど、あの子ならわたしは賛成だよ」
気の早い思い込みには閉口したが、おふくろは久しぶりにおしゃべりの相手を見つけたのが嬉しくてたまらない様子だ。俺の説明なんざ聞いちゃいない。悦子と結婚する前、両親にうまく取り入って、なしくずしに同居を決めこんだ女性がいて、追い出すのに相当手を焼いたものだ。以来、俺は家に女性を連れてくるのを避けていたため、若い女性の来訪は十何年かぶりになるはずだ。食事中も俺に話すよりおふくろに掛ける言葉のほうが多い紗江子に、おふくろがはしゃいでしまうのも無理はなかった。
「口に合わない? 箸が進んでないみたいだけど」
席に戻った紗江子が気遣わしげな顔をする。
「いや、美味いよ。ただ朝はあまりたくさん食べない習慣になっていたから胃が戸惑ってるんだ、きっと。これ、全部、君が作ったのか?」
べーコンやチーズ、炒めた玉葱を挟んだオムレツ、ハッシュドポテト、グリーンサラダにヨーグルトにクロワッサンにと、ホテルの朝食並みの品揃えであった。
「よそ様の冷蔵庫を勝手に開ける訳には行かないでしょう? コンビニで買ってきたのもあるけど、他はお母さまと一緒に作ったの。そうですよね?」
紗栄子はおふくろに同意を求める。
「一緒に、っていっても、あたしは冷蔵庫から玉子を出したりフライパンの場所を教えたりしただけですからね。紗江子さんは、それは手際も良くって――悦子さんとは大違いだわね」
実はおふくろは別れた妻と折り合いがよくなった。
朝食が済み、片付けが終わってもおふくろは紗江子を解放しようとしない。問い掛けに面倒くさそうに相槌を打つだけの俺や娘達と違い、愛想がよく笑顔で積極的に語りかけてくれる紗江子は、言葉は悪いがおふくろの恰好の餌食となっていた。