三
悪癖なのか長所なのか、俺は初めての部屋でも全く臆することなく寛ぐことができる。勿論、怖そうな父親でも居れば話は別なのだが。すすめられるままに今や懐かしくなった炬燵に足をすべり込ませ、無遠慮にも独身女性のきれいに片付いた部屋を眺めまわしていた。1DKといったところか。
本棚にはたくさんの小説が作家別に几帳面に並べられていた。友人らに「らしくない」とは言われるが、実は俺も読書家を自負している。見覚えある作家名が並んだ背帯の列に、話題に困ることはないなと、ほくそ笑んでいた。
「お砂糖はいくつ?」
薄い壁の向こう、キッチンであろう辺りから紗江子が訊ねてくる。
「あ、ひとつで……」
単に「いくつ?」という問い掛けなら「ヨ、ヨンジュッサイデス」とボケてやろうとの企みはその時点で立ち消えとなる。しかし女性を和ます術は多彩な俺である。ちっとも焦りはなかった。
揃いのコーヒーカップをトレイに乗せ、紗江子がリビングに戻ってくる。向かいに座るのかと思ったが俺の左手側に腰を下ろした。良い兆候だ。
彼女が足をすべりこませた時、俺の足とぶつかった。「痛いっ! 折れたらどうしてくれる」と、ふざけながら、さするフリをして彼女に触れる。足を引く様子もない紗江子の男性経験はどれほどのものか、俺はそれを推し量っていた。この辺り、むっつりスケベと言われても致し方ない。
「あっ! おヒゲ伸ばしてるんだ。怖さ倍増ね」
この二週間剃ってない俺の無精ヒゲを、いま気づいたかのように紗江子がいった。元カノにせよ紗江子にせよ、父親みたいな年齢の俺に話す口調は至って気やすい。俺の精神年齢はよほど低く見られているのだろうか。
「ヒゲと言えば――」白髪の混じり始めたヒゲをマスカラで染め、そのまま濃厚なキスをして相手の口の周りを泥棒コントみたいにしてしまった失敗談を話す。紗江子は大きな声で笑った。
「なんせバカヤローですから」
そう言って彼女の反応を待った。
「あの時はごめんなさい。ただ悲しかったの。次に逢うあなたにどんな顔をすればいいかわからなくて怖かった。でもすぐにメールをくれたわよね。翌朝いつもと変わらず頭を掻きながらあたしの前を通り過ぎるあなたは、あたしの思った通りの大人だったわ」
紗江子は神妙な面持ちで謝意を告げる。
「いや、あれは俺が全面的に悪い。頭からパスタをかけられても仕方ないところだったんだ。そうしなかった君に感謝してる」
若い女性の褒め言葉に容易く感動してしまう俺は、慎重に言葉を選んで答えた。「ならば」と、いまさらコーヒーを頭からかけられるのも困る。
「ところで……あたしにはしないでね」
笑顔に戻った紗江子がいった。
「えっ、キスをかい?」
紗江子との関係が順調に進展しているものと信じて疑わなかった俺は慌てて訊き返す。
「そっちじゃないの」
今度は小声で囁く。そっちじゃない、という事は……どれだけも飲んでないコーヒーをこぼさないよう注意してテーブルの中央に寄せ、紗江子の脇に腕を差し込むようにして引き寄せた。拒む様子はなかったのでそのまま唇を重ねる。積極的ではないがちゃんと応えてくれるキスだった。二十六歳だったな、まあ当たり前の反応か。
こういった俺の段取りを値踏みと思われるのは心外だ。言葉でもって根掘り葉掘り聞くよりも、この方がよほどスマートではないか。そして女性へのアプローチは、その男性経験の度合いによって変えねばならない事も承知している。
油田にせよ温泉にせよ闇雲に掘って行き当たるものではない。『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』と、かの孔子殿もいっておられる。いや、孫氏だったか? まあ、そんなことはどうでもいい。