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二十二

「叔母が嫁いでいた先は代々市会議員を務める、所謂、名家だった。母に渡すお金も貸してあげるから新聞配達なんか止めなさい、働くようになったら少しずつ返してくれればいいから。叔母はそう言ったけど、あたしは新聞配達を止めなかった。母に対しての意地もあったのね。あの街の冬は氷点下になることもしょっちゅうで、手袋をしていても自転車で風を切る手は真っ赤になる。雪が積もった日は、籠も荷台も新聞でいっぱいになった自転車を押して歩くの。泣いたら負けだ、絶対に泣くもんか、そう思うほどに涙が溢れて止まらなかった」

 四十男の涙も止まらなくなっていた。

「見て」紗江子が右足を差し出す。スリッパは脱がれていた。小指の先に僅かな欠損があることを、以前愛し合った時、俺は気づいていた。少し特徴がある歩き方はこれに起因していたのかと理解したが、それを話題にしない程度のデリカシーは俺にだってある。

「凍傷よ、夏でもサンダルは履けない。あの時、気づいていたでしょう? なにも言わないあなたの気遣いは嬉しかったけど、そんな理由があったの」

 凝視した訳ではないが、紗江子はすっと足を引いてスリッパに通す。俺は、ずれた膝掛けを掛けなおしてやった。

「ありがとう」紗江子の声はかすれていた。

「そして高三の夏、少なくとも勉強のためにコインランドリーに行かなくてもよくなっていたあたしは、すべての教科に四・五以上がついていたの。成績表を見た叔母は『短大ぐらい出ておきなさい。あんたが家事を手伝ってくれて随分助かったのだから、それぐらいさせてちょうだい』そう言ってくれた。一時は高校進学すら諦めていたあたしによ。でもそんなお金なんてある訳ない。曖昧に返事をするあたしに叔母はこうも言ってくれたの。家事を手伝ったくれた時間をノートにつけていて、今日は何時間だからこれだけ。今日はこれだけ、とあたし名義の預金通帳を作って積立をしている。『今はこんなになってるのよ』と、優しく笑ってそれを手渡してくれた。私立は無理でも公立の短大だったら入学金と一年分の授業料ぐらいになりそうな金額が記されていたわ。あたしがよろこんだかって? ううん、茫然としてたわ。現実味なんか全然感じられなかった。想像すら及ばないその状況に、何が起きてるのか自分自身、全く理解出来ていなかった。ミステリーが好きでよく読んでいたあたしは、叔母が本当の母親じゃないのかって思った。でも悲しい事にあたしは母にそっくりなの」  

 紗江子の美貌は母親譲りだったのか……。儚げに見えるやや薄めの唇は好みも分かれるだろうが、切れ長の瞳と形の整った鼻は百人が見て九十九人が美人だと答えるはずだ。魚男の登場はまだだったが、彼女の『辛い日々シリーズ』が終わりそうな気配に俺は安堵していた。

 延々と続く不幸物語に俺の体内水分は枯渇しかけていた。少しだけ余裕の戻った俺は涙声にならないよう注意して紗江子に訊ねた。

「魚男はその叔母さんちの息子なのかい?」

「ええ、いずれは父親の跡を継いで市会議員、うまくすれば国会議員にも打って出ようとしていたんじゃないかしら。大叔父様が参議だったの。当時は東京の大学に通っていたそうよ。父がいた頃、何度か一緒に遊んだ記憶もあった。でも自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす彼が、あたしは苦手だった」

 しかし、俺が見た魚男の風体と議員センセイに抱くイメージには大きな隔たりがある。先の読めない展開は、彼の挫折ストーリーへと続いていくのだろうか。

「そっか、苦労したんだな。でも良かったじゃないか、偶然とはいえ叔母さんに逢えた元旦が君の転機になったんだろう?」

 佳境も過ぎ、地元へ戻ってきた魚男が紗江子に惚れ、そしてふられる話にでも繋がってゆくのだろう。俺は早計にも紗江子の告白をまとめにかかってしまった。少なくとも車も持っており、デートでは毎回、品の良さそうな洋服を身に着けていた彼女だ、貧困による悲劇は去った。足の指は可哀想だが俺はそんなもの気にしない。たいした告白でもなかったな、滂沱の如く涙を垂れ流し続けた俺は、照れ隠しにそう自分に嘯いてみせる。顔を上げた紗江子の眼がみるみる赤く染まっていった。

「まだ終わってない」

――It's not finished――

 俺はいつか見た悲しい映画のセリフを思い出した。



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