十七
「ねえ……」
そのままの姿勢で紗江子が囁く。
「なんだい?」
「あたしが職場で見るジュンは、いつも大股で脇目も振らずに歩いてて、殆ど笑顔も見せないし無駄口もきかない。他人を寄せ付けない雰囲気っていうのかしら、そんな感じなの。でもここにいるあなたは、あたしなんかのために甲斐甲斐しく動き回ってくれている。どっちが本当のあなたなの?」
笑わない、面白味がないは、お互い様だったか――、俺は苦笑した。ついでに言っておくと、俺は女性が「あたしなんか」というのが嫌いだ。謙遜であることはわかっていても、その「なんか」を大切に思う俺の気持ちはどうなるのだ。しかし抱擁の最中にそんな御託を並べるのも興醒めなので、別の言葉を口にする。
「どっちも俺には違いないけど後学のために君の好みを聞いておこうか、どっちがいい?」
「うーん……、どっちも好き」
じゃあ聞くなよ、俺は吹き出した。
「なんなら永久に住みついてもいいんだぜ。下宿代はキスで払ってくれればいい」
「キス一回を幾らで計算してくれるの? 唇が腫れちゃうわよ」
「いや……」
そう簡単に腫れるもんじゃない、と反論しようとしたが、その根拠が他の女性との記憶だったことを思い出し、続きを呑み込む。細い首筋に唇を這わせようとすると紗江子は急に体を離した。
「お風呂にはいってからね」
汗をかくような季節でもないのに、女性はこういうところに至って神経質だ。
「母屋へ行こう、パジャマは持ってきたかい? 娘のを貸してあげられるといいんだけど、年頃の彼女達のタンスを開きでもした日には一週間は口をきいてもらえなくなるからな」
「大丈夫、ちゃんとここに」
紗江子がボストンバックを指差す。機嫌を損ねた娘達を前に狼狽する俺を想像したのか彼女の顔に同情の色は見られず、寧ろ楽しげでさえあった。