十六
亡父の部屋だったここは離婚協議中、俺の避難場所となり。女房が出て行ってからも引っ越すのが面倒でそのまま居座っていた。
「昔は倉庫として使っていたところに造作しただけだから断熱はしっかりしてないんだ。オイルヒーターがタイマーで勝手に入切するから冷え切ってはいないけど……。寒いな、今夜は。今のうちに部屋を暖めておこう」
俺はエアコンのリモコンを操作して暖房をいれた。
「テレビのリモコンはそこ、冷蔵庫の中のものは好きに飲んでくれていいよ。ミネラルウォーターが入ってるから、お湯が欲しければその電気ケトルで――。使い方はわかるかい?」
「多分」
紗江子が短く答える。
「持ってきた洋服はここに掛けるといい」
俺はパイプハンガーにかかった自分の洋服を両手で掴むと、無造作に部屋の奥へ放り投げた。居住スペースは手前の半分。カーテンの向こうはタンスや夜具入れが林の如く立ち並んでいる。
「乱暴ね、皺になるわよ」
紗江子が咎めるように言った。
「普段着ばかりだから構いやしないさ。ほらここも空けておくよ」
スチール製のメッシュ棚に乗せられたニットやジーンズをまとめて抱え、同じく部屋の奥へと放り投げた。
「男のひとの部屋って感じがするなあ。あっ、ギター弾けるの?」
部屋の隅に置かれたギターを紗栄子が指差す。弾けないものを置いておくはずはないが、弾けると答えると大抵の場合「弾いてみせて」とせがまれる。ラブソングの弾き語りで女性は口説けないと知っていたし、今更その必要もない。「ああ、それは調度品だよ。俺がここで暮らし始める前から置いてあったんだ」と、穴だらけの言い訳でされてもいないリクエストを回避する。真新しい毛布とシーツを夜具入れから出してベッドに置く。さすがにオヤジ臭漂うベッドには寝かせられない。
「あはは、上げ膳据え膳ね」
読書家の女性は、どうにも語り口が年寄りくさい。
「ここに女性を招き入れること自体初めてでね。別れた女房でさえ勝手に出入りはさせなかった。君が夜を過ごすのにどんな準備をすればいいのかわかんないから、思いつくままにやっているだけさ」
「そうなんだ、光栄です」紗江子は深々と頭を下げた。長い髪が揺れ、えも言われぬ芳香が立ちのぼる。
「トイレはそこ、風呂は母屋にしかないから後で案内するよ。ふう、温泉旅館の仲居かなにかになったみたいな気分だな。お客様、他にご用はございませんか?」
「あるわ、チップよ」
紗江子が俺の首に両手を回してきた。グレープフルーツにナイフを入れた瞬間のような香りが鼻腔をくすぐる。確かパシャとかいう名前の香水だった。