十五
小旅行にでも使えそうなボストンバッグを抱え、紗江子が駆けてくる。
「随分、デカいバッグだな。住みつく気かよ」
「これしか持ってないの。短大の卒業旅行の時に買ったものなのよ」
俺はバッグを受け取り車の後部席に積み込む。見かけの割に軽かった。
「ジュンのおうちは初めてだからゆっくり走ってね」
「善の歩みが如く走りますとも」
「ガンジーね?」
読書家同士の会話はそうでない人々にとって、わかりにくいことこの上ない。魚男から、或いは見知らぬ番号からの着信がなかったことを確認して携帯電話の電源を戻しておくよう紗江子に伝える。
「電話までは知られてないみたいだな」
「そうみたい。さっきは出られなくってごめんなさい。でも五分で二十ニ回って……」
「そのくらい心配してたってことさ」
しつこい男と思われるのは心外だが、実際、俺はしつこい。紗江子はパールホワイトの軽自動車に戻ってエンジンをかけた。
ルームミラーに映るヘッドライトを意識して車を走らせる。紗江子がはぐれないよう、なるべく信号の少ない道のりを選び、黄色はすべて止まった。
特に問題もなく俺の家にたどり着く。娘達のいない母屋は当然、真っ暗で、おふくろが寝室にしているはなれも静まりかえっている。今年七十八歳になるおふくろは鶏のように早寝で雀のように早起きだった。
「うわあ、広いおうちなのね」
母屋の前には和風庭園とシャッター付きのガレージ、ついでに、はなれがふたつ、大邸宅と思われそうだが、築三十四年の母屋は老朽化が進んでおり新築時分から改築を施していないため間取りもおかしい。何故だか風呂と脱衣所が廊下の対局に位置していたりするのだ。亡父が唯一残してくれたものではあったが、はっきり言って生活しにくい、それが正直な感想だった。
「はなれに案内しよう」
「そうね、荷物もときたいし……、お願いします」
ガレージのシャッターを下ろし、遠慮する紗江子からバッグを奪い取って先を歩く。施錠されてない引き戸を開け、暗闇を探って電灯のスイッチを入れる。
怪しげな物は置いてないはずだ。俺はカーテンで仕切られた六畳間が縦にふたつつ並ぶ程度のはなれに紗江子を招き入れた。