第8話:一握りの幸せ
ゲリラ豪雨が過ぎ去り、しとしととした小雨に変わった夜の八時。
建設現場の片隅にあるプレハブの詰所で、翔は泥だらけの作業着を脱ぎ、タオルで乱暴に頭を拭いていた。
スマホを確認すると、グループチャットに蓮から「愛莉と合流した。送っていく」という短いメッセージが入っていた。
「……やっと腹括ったか、蓮のやつ」
翔はホッと息を吐き、口元に笑みを浮かべた。愛莉への恋心など最初から微塵もない。だからこそ、不器用でいつも一歩引いていた蓮が、自分から愛莉を迎えに行ったことが、自分のことのように嬉しかった。
コンコン。
ふいに、プレハブのドアが控えめにノックされた。
「はいよ、開いてるぞ」
ドアを開けて入ってきた人物を見て、翔は目を丸くした。
「……葵? お前、なんでこんなとこに」
濡れたトレンチコート姿の葵が、コンビニの袋を提げて立っていた。いつもは完璧なメイクも今日は少し崩れ、寒さのせいか華奢な肩を微かに震わせている。
「……近くのクライアントのところで打ち合わせがあったから。ついでよ、つ・い・で。あんた、現場が豪雨で大変だってチャットで言ってたから……これ、差し入れ」
葵はそっぽを向きながら、温かい缶コーヒーと肉まんの入った袋を翔の胸に押し付けた。
翔は袋を受け取り、呆れたように息を吐いた。
「お前なぁ……ここ、お前の営業エリアから全然近くねぇだろ。どんだけ雨ん中歩いてきたんだよ」
図星を突かれ、葵は言葉に詰まった。
「……っ、う、うるさいわね! せっかく買ってきてあげたのに! もう帰る!」
くるりと背を向けようとした葵の腕を、翔の大きく力強い手がガシッと掴んだ。
「待てって。……ありがとな、葵」
翔の声は、普段のふざけた調子ではなく、低く、甘く、真剣だった。
引き寄せられるように振り返ると、翔のまっすぐな瞳が葵を射抜いていた。
「愛莉が蓮に甘えられるようになったらさ、俺、今度はお前のこと構ってやろうかと思ってたんだよ」
「……は? なにそれ。私、愛莉みたいに子供じゃないし、あんたの保護なんて……」
「強がるなよ」
翔の手が、葵の濡れた頬にそっと触れた。
無骨で、少しタコのある、温かい手のひら。
「いつも完璧な営業ウーマンでいようとして、一人で全部背負い込んでさ。でも本当は、今日みたいにわざわざ雨ん中差し入れ持ってきてくれるくらい、優しくて……不器用なやつだってこと、俺はずっと知ってるよ」
葵の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
好きだよ、と伝えればいいのに。
願う先が怖くて言えず、いつも嫌味な言葉で鎧を着ていた。愛莉のように素直になれない自分がもどかしくて、嫌いだった。
でも、翔は、そんな可愛げのない私の「強がり」の奥にある本音を、ちゃんと見つけてくれていたのだ。
「……バカ翔。ほんとに、バカ……」
「おう。バカでゴリラな俺の胸でよかったら、いつでも貸してやるよ」
翔はそう言って、葵の体を自分の広い胸にすっぽりと抱き寄せた。
雨の匂いと、翔の頼もしい体温。
葵は、翔の背中に腕を回し、顔を埋めて静かに泣いた。
それだけでも、もういい。
だけど、この一握りの幸せも、君がくれたものだから。
本当は、ずっと抱きしめていたい。
プレハブの屋根を打つ雨音は、いつしか優しく穏やかなリズムへと変わっていた。葵の心の中でずっと降り続いていた冷たい雨が、翔の温もりによって静かに上がっていくのを、彼女は確かに感じていた。




