第7話:悴んだ手を温めるなら
六月の冷たい土砂降りの雨から逃れるように、二人は地下街へと続く階段を駆け下りた。
「わぁっ、れんくん、ごめんねぇ……わたしのために、こんなに濡れちゃって」
地下街の隅のベンチに腰を下ろすと、愛莉は慌ててバッグからタオルハンカチを取り出し、蓮のずぶ濡れになった右肩を申し訳なさそうにぽんぽんと叩いた。
「……気にすんな。それより、愛莉のほうが濡れてるだろ」
蓮は愛莉の手からハンカチをそっと奪い取ると、彼女の濡れたショートボブの髪を、壊れ物に触れるように優しく拭き始めた。
「んんっ、自分でできるよぉ」
「じっとしてろ。風邪引く」
普段はグループの中で一番口数が少なく、少し離れたところから皆の笑顔を見守っているだけの蓮。
そんな彼の、すぐ目の前にある真剣な眼差し。ハンカチ越しに伝わってくる、大きく温かい手のひらの感触。
ドクン、ドクン。
愛莉は、自分の胸の奥で早鐘を打つ心臓の音に戸惑っていた。
いつもなら、「しょうのバカぁ、手荒いよぉ!」と笑って文句を言うところだ。翔とのスキンシップは日常茶飯事で、そこにドキドキなんて欠片もない。
でも、今は違う。
蓮の指先が髪をすくうたび、ふわりと香る彼のコロンの匂いと、雨の匂いが混ざり合って、愛莉の頬はカッと熱くなった。
どうして、こんなに苦しいんだろう。ただの優しい男友達のはずなのに。
「……あ、あのね、れんくん。今日、お仕事抜け出してきてくれたの?」
静寂と気まずさを誤魔化すように、愛莉が上目遣いで尋ねる。
「……ああ。別に、大した仕事じゃなかったから」
蓮は短く答え、愛莉の髪から手を離した。そして、彼女の膝の上で小さく丸まっている、白く悴んだ両手に視線を落とした。
――悴んだ手を温めることが、もう一度できるなら。
蓮は、ギュッと唇を噛んだ。
この手を握って、「好きだよ」と伝えればいいのに。
願う先が怖くて言えず、好きという事実を通り過ぎて、ただの友達として愛してしまった。
始まりの時まで、戻りたい。
初めて出会ったあの日、ただの「友達の一人」という安全圏に逃げ込まずに、一人の男として君の前に立っていれば、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。
「れんくん?」
黙り込んだ蓮を不思議に思い、愛莉が首を傾げる。
その舌っ足らずで無防備な声が、蓮の張り詰めていた心の糸を、ぷつりと切った。
「……愛莉」
蓮は、愛莉の悴んだ小さな両手を、自分の両手でそっと、けれど逃げ場のないように強く包み込んだ。
「えっ……? れ、れんくん?」
愛莉は驚いて息を呑み、目を丸くした。
「翔が来れないから、俺が来たんじゃない。……俺が、君を迎えに行きたかったから、来たんだって言っただろ」
蓮の声は、微かに震えていた。
ずっと、ずっと伝えたかった言葉。グループの輪を壊すのが怖くて、飲み込み続けてきた想い。
「俺は、愛莉が好きだ」
地下街の雑踏の中、その言葉だけが、ひどく鮮明に愛莉の耳に届いた。
「……え?」
「ただの友達じゃなくて……一人の女として、ずっと見てた。翔みたいに器用になんでも笑い飛ばしてやれないし、口下手だけど……俺なら、雨の日に君を一人で泣かせたりしない」
蓮の真っ直ぐで、切実な瞳。
愛莉の胸の奥で、今まで感じたことのない激しい鼓動が跳ねた。
「好きだよ」と「好きだよ」が、募っては溶けていく。
この温かい手のひらに包まれた瞬間、愛莉はもう、彼を「ただの大人しい友達」には戻せないことを悟った。
「れん、くん……わたし……」
「……ごめん、急に。困らせるつもりはなかった」
愛莉が戸惑いの色を見せた瞬間、蓮はハッとして、慌てて彼女の手を離そうとした。
やっぱり、言わなきゃよかった。今のまま、友達のままでいれば。
しかし、愛莉は離れようとする蓮の手を、ギュッと握り返した。
「ちがうの……困ってないよぉ」
愛莉は顔を真っ赤にして、濡れた瞳で蓮を見上げた。
「わたしね、しょうとは絶対にそんな風にならないの。でも……今、れんくんに手、握られて……すごく、ドキドキしてる」
それは、愛莉自身も初めて自覚した、不器用で可愛らしい告白だった。
蓮は目を見開き、そして、安堵と喜びで顔をくしゃくしゃに歪めると、もう一度、今度は自分の意志でしっかりと愛莉の小さな手を握り直した。
雨が止むまで、このままでいさせて。
いや、雨が上がっても、もう二度とこの手を離さない。
二人の間にあった見えない壁が、土砂降りの雨空に、完全に溶け落ちた瞬間だった。




