第6話:土砂降りの雨の中
六月も終わりに近づいた、金曜日の夕方。
札幌の街を、突然のゲリラ豪雨が襲った。バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が、アスファルトを激しく打ち付けている。
「どうしようぉ……商品、濡れちゃうよぉ」
大通公園にほど近い、ビルの狭い軒下。
アパレルショップで働く愛莉は、秋物の新作サンプルがぎっしり詰まった大きな紙袋をいくつも抱え、泣きそうな顔で空を見上げていた。
急な店舗間の移動を頼まれた矢先の出来事だった。傘は持っていない。少しでも雨宿りしようと走ったせいで、自慢のショートボブはぺたりと額に張り付き、薄手のブラウスの肩口もすっかり濡れて透けてしまっている。
愛莉は慌ててスマートフォンを取り出し、一番に翔へ通話をかけた。
困った時は、いつだって彼が助けてくれたから。
『おっ、愛莉か。悪い、今現場が豪雨でめちゃくちゃで、手が離せねぇ!』
「えっ……しょう、あのね、わたし今大通にいて……」
『マジでごめん! 落ち着いたら連絡する!』
ツーツー、という無機質な電子音が響く。
翔は現場監督だ。この雨の中、彼も必死で仕事をしているのだから仕方ない。愛莉は一つため息をつくと、7人のグループチャットに「大通で雨宿り中(泣)誰か近くにいないかなぁ?」と、スタンプ付きでメッセージを送信した。
数分後。
WEBデザイン会社でPCに向かっていた蓮のスマホが、短く震えた。
画面に表示された愛莉のメッセージを見た瞬間、蓮はマウスから手を離した。
普段なら、「誰かが助けに行くだろう」と遠慮してしまうところだ。特に、こういう時は決まって翔がヒーローのように現れて、愛莉を笑顔にするのがいつものパターンだった。
――自分から、傘を差して迎えに行かなきゃいけない時もある。
陽斗の淹れてくれた、あの温かいココアの記憶が蘇る。
君と離れてから数日目の、土砂降りの雨の中。
もし、愛莉が一人で、冷たい雨に震えているのだとしたら。翔の代わりじゃなくて、「俺」が君のところに駆けつけても、いいのだろうか。
「……っ」
蓮は無言で立ち上がると、椅子に掛けてあった上着と自分の黒い傘だけを掴み、オフィスを飛び出した。
「えっ、蓮さん!? まだ定時前ですよ!」という同僚の声を背に受けながら。
息を切らして大通の交差点を走る。
いつもの待ち合わせ場所に近い、時計台の裏通り。いるはずのない面影を探して、蓮は必死に雨の中を駆けた。
そして。
雑居ビルの狭い軒下で、紙袋を自分の体で庇うようにしてしゃがみ込む、小さな背中を見つけた。
「……愛莉!」
傘もささず、ずぶ濡れな君はそこにいた。
愛莉はビクッと肩を震わせて顔を上げた。濡れた前髪の隙間から、驚きに見開かれた大きな瞳が蓮を捉える。
「れん、くん……?」
「……馬鹿。なんでそんなに濡れてるんだよ」
蓮は乱れた息を整える間もなく、愛莉の頭上にバサッと大きな黒い傘を広げた。
傘の柄を握る蓮の手は、走ってきたせいで微かに震えている。彼の右肩は、愛莉をすっぽりと傘に入れるために、激しい雨に打たれて濃いグレーに染まっていた。
「れんくん、お仕事中じゃなかったの……? しょうが来れないから、連絡してくれたの?」
愛莉が、舌っ足らずな声で申し訳なさそうに見上げてくる。
この子は、いつだってそうだ。
自分が誰かに特別に愛されているだなんて、疑いもしない。自分のために誰かが必死になって走ってくるなんて、翔以外にはあり得ないと思っている。
「……翔は関係ない」
蓮は、愛莉の足元にある重そうな紙袋をヒョイと持ち上げると、静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「俺が、愛莉を迎えに来たかったから、来たんだ」
雨音が、世界からふっと遠ざかったような気がした。
愛莉はパチクリと瞬きをした。いつも静かで、グループの輪の少し後ろで微笑んでいるだけの蓮。その彼の、雨に濡れた黒髪の奥にある真剣な瞳を真正面から見つめられ、愛莉の胸の奥で、トクン、と小さな、けれど確かな音が鳴った。
「……れんくんの、肩、濡れちゃうよぉ」
「いいよ。……愛莉が風邪引くより、ずっといい」
こんな日は、必ず傘を届けにいく。
ずっと胸の奥に秘めていた言葉にならない「好きだよ」が、土砂降りの雨空に、ほんの少しだけ溶け出した瞬間だった。




