第5話:マスターの淹れるホットココア
カウンター越しに見る6人の顔は、グラスの氷が溶けるように、少しずつ変わり始めている。
路地裏のカフェバー『Rain』。若きマスターである陽斗は、磨き上げたグラスを布巾で拭きながら、店内に響く常連たちの笑い声に目を細めた。
「はるとくぅん、聞いてよぉ。しょうがまたわたしのカクテルのチェリー、勝手にたべたの! ほんとサイテーだよねぇ」
愛莉が、空になったグラスを両手で持ちながら、ぷくっと頬を膨らませて抗議してくる。
「うるせぇな。お前、さっきからチェリーだけ残して氷ばっかカラカラ鳴らしてただろ。もったいねぇから食ってやったんだよ」
隣に座る翔が、呆れたように愛莉のおでこを指でピンと弾いた。
「いったぁい! もう、しょうのバカバカ!」
「はいはい、わかったから。ほら、飲むか? 俺のジンジャーエール」
じゃれ合う二人。その絶対的な「親友」という空間は、誰にも立ち入る隙がないほど完成されている。
だが、陽斗の目はごまかせない。
翔に甘える愛莉を、テーブルの向かい側で静かに見つめる蓮の、どこか切なげな瞳。
愛莉の頭を乱暴に撫でる翔の手を、視界の端で追いながら、わざとらしくスマホに目を落とす葵の、ぎゅっと結ばれた唇。
そして、先ほどの気まずい空気を誤魔化すように、必要以上に大きな声で笑っている大樹と、それに愛想笑いで応える美咲の、縮まらない距離。
25歳。大人ぶってはいるけれど、みんな恋には不器用で、ひどく臆病だ。
好きという事実を通り過ぎて、今ではもう愛しているのに。失ってから気づくのでは遅いのに、今の居心地の良さを失うのが怖くて、「好きだよ」と伝えることができない。
「……はぁ。人のこと言えないけどな」
陽斗は小さく息を吐き、カウンターの隅に飾られた青い紫陽花を見つめた。
近所の花屋で働く、笑顔が素敵な年下の女の子が、この雨の季節に合わせて届けてくれたものだ。陽斗もまた、この店という自分の居場所を守ることに必死で、彼女を食事に誘うことすらできずにいる。
「みんな、今日はちょっと冷えるからさ。最後は特別メニューにするよ」
陽斗はエスプレッソマシンを止め、小鍋にミルクを火にかけた。上質なココアパウダーを丁寧に練り込み、ほんの少しだけシナモンを効かせる。
「わぁ……いい匂い」
美咲がホッとしたような顔で、甘い香りに鼻をくすぐらせた。
「ほら、特製ホットココア。今日は僕の奢り」
6つのマグカップをテーブルに並べると、みんな少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに両手でカップを包み込んだ。
「ありがとぉ、はるとくん! すっごくあったかいねぇ」
愛莉が無邪気に微笑み、ココアを一口飲んでふにゃりと目を細める。
「ねえ、みんな」
陽斗は、カウンターに肘をつき、穏やかな声で語りかけた。
「雨宿りって、安心するよね。濡れなくて済むし、ここにいればずっと温かい。でもさ……いつかは雨の中に出ていかなきゃいけない時が来るんじゃないかな」
ピタリ、とテーブルの上の笑い声が止んだ。
蓮が、葵が、大樹が、ハッとしたように陽斗を見る。
「すれ違いも、二人もう一度やり直すための試練……なんて言うと大袈裟だけどさ。自分の気持ちに嘘をついて、このまま時間が止まればいいのにって願ってても、雨はいずれ止むし、季節は変わる。本当はこのまま気持ち確かめたいって思ってるなら……自分から、傘を差して迎えに行かなきゃいけない時もあると思うんだ」
陽斗の言葉は、誰に宛てたというわけでもない。
ただ、本当の気持ちを隠して「親友のグループ」という雨宿りの場所に閉じこもっている彼らの背中を、ほんの少しだけ押したかったのだ。
「……」
蓮は無言でマグカップを見つめ、大樹は真剣な顔で小さく頷いた。
葵は「……マスター、たまにはいいこと言うじゃない」と、照れ隠しのように顔を背けた。
「なんだよ陽斗、急にポエムか? お前こそ、あの花屋のちゃんねーに声かけなくていいのかよ」
空気を読まない(いや、あえて読んだのだろう)翔の茶化すような言葉に、陽斗は苦笑いした。
「痛いところ突くねぇ。まあ、僕も頑張るよ。……みんなもね」
外の雨は、まだ止む気配がない。
けれど、温かいココアを飲んだ彼らの胸の奥で、臆病な「恋音」が、少しずつ確かな鼓動へと変わり始めていた。




