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第3話:強がりな雨宿り

六月の雨の日は、憂鬱だ。

 特に、朝から外回りの営業に出ているあおいにとっては、湿気で広がる髪と、パンプスに跳ねる泥水が何よりの敵だった。

「はい、株式会社〇〇の葵です。本日はあいにくのお天気ですが……ええ、もちろん午後イチでお伺いいたします。よろしくお願いいたします」

 札幌駅近くの地下歩行空間で、葵はスマートフォンを耳に当てながら、手帳にびっしりと書き込まれたスケジュールを確認した。

 二十五歳。同期の中でトップクラスの営業成績を誇る彼女は、常に完璧なメイクと隙のないパンツスーツ姿で、周囲から「クールビューティー」と呼ばれていた。

 だが、その完璧な鎧の裏側には、誰にも言えない不器用さと、どうしようもない弱さが隠されている。

 通話を終え、深くため息をついた時だった。

「おっ、葵じゃん。こんなとこで何してんの? まさかサボり?」

 背後から、不躾で、しかしひどく耳に馴染んだ声がした。

 振り返ると、作業着姿にヘルメットを小脇に抱えたしょうが立っていた。

 端正な顔立ちに、無精髭。少し汗ばんだ首筋から漂う男らしい体臭が、一瞬で葵の心臓の鼓動を早めた。彼は近くの建設現場で現場監督をしているのだ。

「サボりじゃないわよ。午後からの商談前の確認。翔こそ、そんな泥だらけでウロウロしないでよ。地下歩行空間が汚れるでしょ」

 葵は、鼓動の早鐘を隠すように、わざと冷たく言い放った。

「おいおい、現場の男捕まえて泥だらけはねぇだろ。俺たちがこの街作ってやってんだぞ」

 翔はニヤリと笑うと、ポケットからくしゃくしゃの千円札を取り出した。

「ほら、コーヒー奢ってやる。ちょっと休んでけよ。顔色、悪いぞ」

 翔は、葵の抗議を待つことなく、近くのコーヒースタンドで温かいラテを二つ買ってきた。

 地下歩行空間の隅にあるベンチに腰掛け、二人並んで紙コップをすする。

「……ありがと」

 葵が小さな声で呟くと、翔は「ん」と短く返事をして、長い脚を投げ出した。

 翔は、愛莉の親友だ。

 愛莉には「ゴリラ」だの「バカ」だの言われながらも、結局は彼女のワガママを全て受け入れている。愛莉が他の男に騙されそうになれば真っ先に駆けつけるし、愛莉が泣いていれば朝まででも話を聞いてやる。

 二人の間に恋愛感情がないことは、グループの全員が知っている。だからこそ、葵は苦しかった。

 愛莉のように、無邪気に「しょうのバカ!」と甘えられたら、どんなに楽だろう。

 素直に「寂しいから話を聞いて」と泣きつけたら、どんなに救われるだろう。

 でも、葵にはそれができない。

「私だって、仕事大変なのよ」とか、「たまには私にも甘えさせてよ」なんて、この口が裂けても言えなかった。

 翔の前では、いつだって「強くて自立した、口の悪い女友達」でいなければならない。それが、葵がこのグループに居続けるための、唯一の防衛線だったからだ。

「そういや、こないだの『Rain』での飲み会、お前早めに帰っただろ? なんかあったのか?」

 翔が、ラテを飲みながらふいに尋ねてきた。

「……別に。翌日の朝が早かっただけ」

「ふーん。まあ、お前は頑張り屋だからな。でも、無理しすぎんなよ。たまには俺に愚痴くらいこぼしてもいいんだぞ。愛莉のワガママ聞いてる俺からすれば、お前の愚痴なんて可愛いもんだ」

 翔は悪戯っぽく笑って、ポンポンと葵の頭を軽く撫でた。

 ――ビクッ、と葵の肩が跳ねた。

 その大きく無骨な手のひらの温もりが、葵の心の奥底にあった脆い部分を、容赦なく撫で回したのだ。

「……っ、子供扱いしないでよ!」

 葵は顔を真っ赤にして立ち上がり、翔の手を振り払った。

「私は愛莉とは違うの! あんたの保護なんかいらないわよ!」

 強い口調で言い捨てた直後、葵はハッとした。

 またやってしまった。本当は、彼の優しさに縋り付きたいのに。本当は、彼の大きな背中に包まれたいのに。口から出るのは、いつも彼を遠ざけるような可愛げのない言葉ばかりだ。

「お、おう……悪かったな。そんな怒んなよ」

 翔は少し面食らったように目を丸くして、苦笑いした。

「……ごめん。もう行くわ」

 葵は逃げるようにその場を立ち去った。

 地下歩行空間から地上に出ると、雨はまだ激しく降り続いていた。

 傘を開き、冷たい雨音に紛れさせながら、葵はギュッと目を閉じた。

 好きだよ、と伝えればいいのに。

 願う先が怖くて言えず、強がることでしか自分を守れない。

 でも、あの大きな手で頭を撫でられた時の、ほんの一握りの幸せも。彼がくれたものだから。

 本当は、ずっと抱きしめていたい。

 冷たい雨のせいにして、葵の目から一粒の涙が、こぼれ落ちた。

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