第2話:揺れる恋と雨空
カフェバー『Rain』を出ると、夜の札幌はまだしとしとと冷たい雨に濡れていた。
「もーっ、しょうのバカぁ。わたしのビニール傘、まちがえて持って帰っちゃうんだもん。信じらんないよねぇ」
愛莉が、ぷっくりと頬を膨らませて文句を言う。
先ほど店を出る際、翔は自分の傘と愛莉の傘を間違えてさっさと帰ってしまったのだ。残されたのは、骨の折れた誰かの忘れ物の傘だけだった。
「……入る?」
WEBデザイナーをしている蓮は、口数こそ少ないが、こういう時に誰よりも早く動く。彼は自分の黒い傘を開き、愛莉の方へとスッと差し出した。
「わぁっ、れんくん、ほんとにいいの? ありがとぉ!」
愛莉は花が咲いたような無防備な笑顔を見せ、迷うことなく蓮の傘に潜り込んできた。
肩と肩が、触れ合いそうな距離。
愛莉の明るいショートボブの毛先から、ふわりと甘いシャンプーの香りが漂ってくる。薄手のニット越しの華奢な肩が視界の端に映るだけで、蓮の心臓は警鐘のようにうるさく鳴り始めた。
「れんくんってさぁ、いつも静かだけど、ほんとはすっごく優しいよねぇ」
水たまりを避けながら、愛莉がふふっと笑って見上げてくる。その無邪気な瞳には、蓮への「恋愛感情」は微塵も含まれていない。ただの、優しくて頼りになるグループの男友達の一人。それが今の蓮の立ち位置だった。
「……翔ほどじゃない」
蓮は視線を前向けたまま、ぽつりとこぼした。
「えー? しょうなんて、ただの乱暴なゴリラだよぉ? 今日だってわたしのポテトたべちゃったし!」
怒っているように見えて、愛莉の声はどこか弾んでいる。
愛莉と翔の間に恋愛感情がないことは、蓮もよくわかっていた。だが、二人が共有している「高校時代からの親友」という絶対的な歴史と信頼感は、誰にも立ち入ることのできない聖域のようだった。
翔は愛莉のダメなところを笑って許し、愛莉は翔にだけは完全に気を許して甘えている。その眩しすぎる関係を前にすると、蓮はどうしても一歩引いてしまうのだ。
――「好きだよ」と、伝えればいいのに。
傘に当たる雨音を聞きながら、蓮は心の中で何度もその言葉を反芻した。
この傘の下で、立ち止まって。彼女の肩を抱き寄せて、本当の気持ちを打ち明けられたら、どんなにいいだろう。
でも、もし伝えてしまったら。
「えっ……れんくん、そんな風にわたしのこと見てたの?」と、この無邪気な笑顔が戸惑いに変わってしまったら。
居心地の良かったこの7人の関係が、自分の身勝手な想いのせいで壊れてしまったら。
願う先が、怖くて言えなかった。
「好きじゃない?」「好きだよ?」と、一人で勝手に揺れる恋心を持て余し、ただ雨空に溶かして誤魔化すしかない。
「ねぇれんくん、聞いてるぅ?」
「……ん、聞いてる。翔がポテト食べた話だろ」
「ちがうもん! 次の休みに、みんなでドライブ行きたいねって話!」
「ああ……いいんじゃないか」
愛莉が、隣で楽しそうにこれからの予定を語っている。
その声を聞いているだけで、蓮の胸の奥がギュッと締め付けられるように痛くて、同時にどうしようもなく甘かった。
この思いが届かなくても。
君との「時間」が、一秒でも長くなるなら。いつか他の誰かのものになってしまうまでの、ほんの束の間の幸せだとしても。
永遠じゃなくていい。今はただ、雨が止むまで、このままでいさせてほしい。
「あ、駅着いちゃった。れんくん、送ってくれてありがとぉ!」
地下鉄の入り口に着くと、愛莉は傘からひょっこりと抜け出し、パタパタと手を振った。
「……気をつけて帰れよ」
「うんっ! ばいばーい!」
改札へと消えていく愛莉の小さな背中を、蓮はいつまでも、いつまでも見つめていた。
握りしめた傘の柄には、彼女の微かな体温の記憶だけが、切なく残っていた。




