第1話:傘とポテトと、親友の距離
2025年、6月。
札幌の街は、朝からしとしとと冷たい雨が降り続いていた。
「もーっ! しょう、またわたしのフライドポテト、勝手にたべたでしょー!」
大通公園から少し外れた路地裏にあるカフェバー『Rain』。
温かいオレンジ色の照明に包まれた店内で、愛莉の少し舌っ足らずな甘い抗議の声が響き渡った。
ふわりと揺れる明るいショートボブ。その可愛らしい顔立ちと、体にフィットした薄手のニットから自己主張する抜群のプロポーションは、街を歩けば誰もが振り返るほどだ。しかし本人はそんな自分の魅力に全く無頓着で、今はただ、無くなったポテトのことで頬をぷくっと膨らませている。
「ばーか。お前がいつまでもスマホ見てボケッとしてるから、冷める前に食ってやったんだよ。感謝しろ」
愛莉の隣に座る翔は、悪びれる様子もなく残りのポテトを口に放り込み、ニカッと豪快に笑った。
端正で甘いマスクに、少し気怠げな色気。それでいて、中身は誰よりも男らしくて頼りがいがある。彼が笑うと、店内の空気がパッと明るくなるような不思議な引力があった。
「ちがうもん! あとでゆっくりたべようと思ってたの! しょうのバカ、大食い、ゴリラぁ!」
「誰がゴリラだ。お前な、25歳にもなってその語彙力はどうにかしろよ。ほら、ケチャップついてるぞ」
翔は呆れたように言いながら、紙ナプキンで愛莉の口元をゴシゴシと無造作に拭った。
「んんっ、痛いよぉ!」
ポカポカと翔の広い肩を叩く愛莉と、それを大きな手でヒョイとあしらう翔。二人のやり取りを見て、円卓を囲んでいた仲間たちがドッと笑い声を上げた。
愛莉と翔は、高校時代からの腐れ縁だ。
「絶対に付き合ってる」「お似合いだ」と周りから何度も冷やかされてきたが、二人の間に恋愛感情は1ミリも存在しない。翔にとって愛莉は「放っておけない手のかかる妹」であり、愛莉にとって翔は「一番頼りになるお兄ちゃん」。お互いのすっぴんも、失恋してボロボロになった姿も知り尽くした、絶対に壊れない唯一無二の親友だった。
「はいはい、二人とも喧嘩しない。愛莉ちゃん、ポテトのおかわり揚がったよ」
カウンターの中から、マスターの陽斗が呆れたように笑いながら、熱々のポテトが盛られたバスケットをテーブルに置いた。
「わぁい! はるとくん、ありがとう! しょうはもう、ぜーったいたべちゃダメだからね!」
愛莉が無防備な笑顔でポテトに手を伸ばすのを、テーブルの向かい側に座っていた蓮が、静かに見つめていた。
蓮の視線は、愛莉が翔に向ける「親友としての笑顔」を見るたびに、ほんの少しだけ切なげに揺れる。
その様子を、グラスを片手に静かに見つめている女性がいた。クールな営業ウーマンである葵だ。
「翔、あんた愛莉の保護者じゃないんだからさ。あんまり甘やかしてると、愛莉に彼氏ができないわよ?」
葵がツンとした口調で指摘すると、翔は「おっ」と身を乗り出した。
「なんだ葵、俺が愛莉の面倒見てるのが妬ましいのか? 寂しいなら、お前の愚痴なら朝まで聞いてやるぞ」
「……はぁ? 誰が寂しいのよ、バカじゃないの!」
翔のその男らしい気遣いに、葵は顔を赤くしてプイッとそっぽを向いたが、その瞳が微かに揺らいでいるのを、隣に座る美咲だけは気づいていた。
「まあまあ! 今日は華金なんだし、楽しく飲もうぜ! な、美咲ちゃん!」
お調子者の大樹が、すかさず美咲の肩を軽く小突いて場を盛り上げる。
「もう、大樹くんったらすぐそうやってふざけるんだから……」
美咲は困ったように笑いながらも、大樹に向けられたその視線はひどく優しかった。
雨音だけが、ガラス窓を規則正しく叩いている。
この男女7人は、社会人になってから陽斗のカフェに集まるようになり、意気投合してできた大切なグループだ。居心地が良くて、楽しくて、誰一人欠けても成立しない、最高の仲間たち。
けれど、それぞれが胸の奥に抱えている「想い」は、少しずつこの関係を軋ませ始めていた。
好きだよ、と伝えればいいのに。
今の楽しい時間が一秒でも長く続くなら、ずっと一緒にいられなくてもいいと、嘘をつく。
「……雨、やまないねぇ」
愛莉がポテトをくわえながら、窓の外の雨空をぼんやりと見上げた。
降りしきる雨の中、彼らの止まった時間が、少しずつ動き出そうとしていた。




