婚約破棄された悪役令嬢ですが、追放先の辺境で「一口で国を落とす」ごはんを作ったら、元婚約者の王子が土下座で並びました
その日、私…レティシア・ヴァルモントの十八年間は、シャンデリアの光の下であっけなく砕け散った。
「レティシア・ヴァルモント!お前との婚約は本日をもって破棄する!」
王宮大広間。何百という貴族の視線が私に突き刺さる。
アルベルト第一王子は、隣に控えた聖女、ミレーユ・フローリアの肩を抱きながら、芝居がかった声で宣言した。
「可愛げのないお前は不要だ。
国を導くのは、慈愛に満ちた真の王妃。聖女ミレーユこそがその人だ!」
会場がどよめく。でも反論の声はない…そりゃそうだ。
私は社交界で「冷酷な悪徳令嬢」と呼ばれている女。
王子の浪費を諫め、塩と脂にまみれた王宮料理を批判し、「王の食事は国の健康そのものです」と進言した…それだけで、悪役の烙印を押された。
「ミレーユの作った薔薇のコンフィチュール、あれこそ真心の味だった。
お前の冷たい舌には一生わかるまい」
……ああ、あの菓子のことね。
砂糖で素材を殴り倒し、薔薇の香りを焦がしバターで塗り潰した、あの暴力的な甘味のこと。
——それ、素材を殺していますわよ。
喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。言ったところで届かないわ。
この人の舌は、もうずっと前から麻痺しているのだから。
「追放先は辺境のノルデン領とする。二度と王都の土を踏むな」
拍手が起きた。聖女が涙ぐみ、王子がそれを優しく拭う。
まるで完璧な物語のクライマックス。
悪役令嬢が裁かれ、聖女が報われる。観客は満足そうに微笑んでいる。
私の胸の奥で、何かが——音を立てて、折れた。
悔しい、悔しい、悔しい、悔しい…!
十年かけて学んだ火入れの技術も、夜明け前に起きて試作を重ねたスープのレシピも、この国の食卓を少しでも良くしたいと願った気持ちも……誰にも、一度も、届かなかった。
背筋だけはまっすぐ伸ばして、私は大広間を出た。
揺れる馬車の中で、ようやく一人になれた瞬間、涙が溢れた。
「私は……ただ、美味しいものを作りたかっただけなのに……!」
握りしめた拳の中には、使い慣れた小さな塩の瓶だけが残っていた。
ノルデン領。王都から馬車で五日。
到着した私を迎えたのは、灰色の空と、痩せた頬の人々と、荒れ果てた畑だった。
「……これは、またひどいこと」
領主館と呼ぶには粗末すぎる石造りの屋敷に荷を下ろし、私はまず井戸水を飲んだ。
——冷たい…王都の水より澄んでいる気がする。
次に村を歩いた。
放牧された山羊の乳を指先で舐め、倉庫に転がる根菜を手に取り、製粉所の全粒粉を親指と人差し指で擦り合わせた。
「……嘘でしょう」
乳は濃厚で甘く、かぶは土の香りの奥に蜜のような甘みを隠している。
小麦はずっしりと重く、噛めば穀物の旨味が広がる確信があった。
素材だけなら——王都の十倍、いいえ、比較にならない。
この土地の人々は「貧しいから美味いものなど作れない」と諦めていた。
でも違う。素材は最高級、足りなかったのは、その声を聴く技術だけだ。
ここでなら、私の密かな夢だった自分だけの店を持てるのではないだろうか?
少しだけれどへそくりも持ってきたし、幸いなことに住まいは用意されていた。
「ここは私の腕の見せ所かしら…!」
私は袖をまくった。
まず、山羊乳のチーズ。
搾りたての乳をゆっくり温め、わずかな酢で凝固させる。
布で水分を切り、塩を薄くまぶして、涼しい石室で三日寝かせた。
表面がうっすら琥珀がかった頃、切り分ける。
ナイフを入れた瞬間、ふわりと立ち上がる乳の甘い香り。
口に含むと、最初にやわらかな酸味、追いかけて深いコク、最後に舌の上でほどけるように消えていく余韻。
次に、全粒粉のパン。
水と塩と、この小麦だけ。余計なものは足さない。
低温で長時間発酵させ、石窯の余熱でじっくり焼く。
外皮がパリッと割れた瞬間に広がる、焼きたての穀物の芳香。
中はもっちりとして、噛むほどに甘い。
そして、かぶのポタージュ。
かぶを薄く切り、ほんの少しの山羊バターで焦がさないように炒める。
水を加えて弱火で三十分。
くったりと崩れた蕪を木杓子で潰し、仕上げに岩塩をひとつまみ。たったそれだけ。
でも一口含めば、舌の上にじんわりと広がる甘みが体の芯まで染みて、冷えた指先がゆっくりとほどけていく。
村の広場に鍋を運んだ日のことを、私は一生忘れない。
最初にスープを口にした老婆が、スプーンを持ったまま動かなくなった。
「……こんな味、初めてだ…あなたはいったい何者なのですか?」
「あはは、ただの追放された悪徳令嬢ですよ」
パンをちぎった少年が目を丸くし、チーズを頬張った娘が、泣き笑いの顔をした。
この料理を村のみんなにふるまっていくたびに、村の子供たちの顔色が良くなり、大人たちの足取りが軽くなった。
私はそれから毎日、皆に料理を振舞っていた。
ノルデン領の食卓は、静かに、しかし確実に変わっていた。
営業時間外、空いている時間に保存食も作った。
塩漬け肉を香草で包み、低温の燻製室で燻す。
繊維がほぐれるほど柔らかく、噛みしめると肉の旨味と木の香りが鼻腔に抜ける。
これなら冬も越せる…!
この噂は、少しずつ、しかし確実に広がった。
「辺境に、とんでもない料理を出す店があるらしい」
追放されてから半年後。
王都は静かに崩れ始めていたらしい。
貴族たちは相変わらず脂と砂糖の宴に溺れ、肥満が蔓延し、騎士団は持久力の低下で遠征もままならない。
食材の高騰は国庫を圧迫し、民の不満は日増しに膨らんでいた。
そんな折、ノルデン領の「奇跡の食卓」の噂が、ついに王宮にまで届いたのだという。
ある晴れた朝、私は店の前で仕込みをしていた。
今日のスープは今が旬の新じゃがのポタージュ。
昨夜仕込んだ鶏の出汁で、じゃがいもの甘みを静かに引き出す。
「レティシア先生、今日も行列すごいよ!」
村の少年が駆け込んでくる。振り返ると、店の前には見慣れた長蛇の列。
農夫、商人、最近は他領の旅人も混じるようになった。
その最後尾に——場違いな金髪が見えた。
フード付きの外套で身を隠してはいるが、あの傲慢な立ち姿を忘れるわけがない。
…アルベルト第一王子。
そう、私の元婚約者で、私を追放した元凶だ。
目が合ってしまった。
彼の顔にはかつての余裕がなく、頬はこけ、目の下には隈が刻まれていた。
「……久しいな、レティシア」
「いらっしゃいませ。当店は並んだ順にお出ししております」
私は淡々と答えて、厨房に戻った。
特別扱いはしない。王子だろうと、一人の客だ。
二時間後、ようやく彼の番が来た。
「……一皿、頼む」
「本日は新じゃがのポタージュと、全粒粉のパン、山羊チーズの盛り合わせです」
いつもと同じ一皿を、いつもと同じように出した。
王子がスプーンを取る。
一口、ポタージュを口に運ぶ。
その瞬間、彼の手が、止まった。
じゃがいもの甘みが舌の上でほどける。塩はほんの一粒分、なのに味がある。
素材そのものが語りかけてくるような、静かで深い旨味…
脂に頼らない。砂糖で誤魔化さない。
一切の虚飾を剥ぎ取った先にある、食材の本当の声。
パンをちぎる。外皮の香ばしさが漂い、食べると中身の甘みが広がる。
味変でチーズを乗せる。乳の芳醇さが穀物の旨味と溶け合い、口の中で小さなハーモニーが生まれる。
王子の目が見開かれた。スプーンを持つ指が震えていた。
「——これが」
彼の声がかすれる。
「これが、お前がずっと言っていた味なのか……」
二口目、三口目。食べるほどに体が温まり、頭が冴え、味覚が研ぎ澄まされていく。
王宮で何年も浴びるように食べてきた料理が、いかに舌を鈍らせていたか。
一口ごとに突きつけられる。
「俺は……何を、捨てたんだ」
器を置いた王子の目に、光るものがあった。
そして…椅子から崩れ落ちるように、膝をついた。額を、土の床につけた。
「戻ってきてくれ、レティシア。王都には……お前が必要だ」
店が静まり返った。村人たちが息を呑んで見守っている。
私は、穏やかに微笑んだ。
「味が分かるようになったのは、喜ばしいことですわ、殿下…
ですが、もう遅すぎます」
王子が顔を上げる。その目には、すがるような光があった。
でも私の心は、もう凪いでいた。
「この土地の素材は、私の声を聞いてくれました。
この村の人々は、私の料理を待っていてくれました。
私はようやく、自分の居場所を見つけたのです」
風が吹いて、厨房からパンの焼ける香りが漂ってくる。
「どうぞお帰りくださいませ。
スープが冷めてしまいますので、お代はお気持ちで結構ですわ」
それから一年。
ノルデン領は王国有数の食料輸出地となった。
私の作った保存食のレシピは騎士団の兵站を立て直し、辺境の乳製品と穀物は各地の食卓を変えた。
隣で帳簿をまとめてくれるのは、領主のグレンさん。
不器用で寡黙で、でも毎朝「今日のパンも美味い」と静かに笑ってくれる人。
王子は王都で食の改革に取り組んでいるらしい。
遅すぎた覚醒でも、やらないよりはましだろう。でもそれは、もう私の知ることではない。
今日も朝が来る。
石窯に火を入れて、乳を温めて、蕪の皮をそっと剥く。
素材の声に耳を澄ませる。この静かな朝の台所が、私の戦場で、私の王座だ。
「…さて、今日も美味しいごはん、作りますか」
湯気の向こうで、村の子供たちの笑い声が聞こえた。
それが私の、一番のご馳走。
完




