9. 一緒にいて
その日、怜さんは不在だった。
「仕入れ先で少しトラブルがあってな。戻りが読めない。店は閉めていいから」
「いえ……大丈夫です。私、最後までいます」
もう、このBARにも慣れている。
ひとりで店を任されても、何も問題はない。
そう思っていた――その時までは。
夜も深まり、お客さんはいなかった。
照明を少し落とし、カウンターを拭いていると、チリン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、見慣れない男性だった。
三十代後半くらいだろうか。身なりはきちんとしている。第一印象は、悪くなかった。
「一人でもいいですか」
「はい、どうぞ」
カウンター席に案内し、注文を聞く。
会話も自然で、最初はただのお客さんだった。
「名前、なんて言うの」
「桜野です」
「違うよ、下の名前」
「……せなです」
「へぇ……可愛いじゃん」
ぬるっと値踏みをするような目つきを見て、背筋がひやりとする。
いや、それ以上何もなければ……問題はないはず。
――でも。
「……彼氏いるの?」
「いえ……」
「じゃあさ……俺ともっと喋ろうよ」
グラスが空くたび、距離を詰めてくるような会話。
声が低くなって、名前を何度も呼ばれる。
怜さんにだってこんなに呼ばれたことがないのに。
「大変だね。一人で」
「な、慣れてますから」
なんとか笑顔を作る。
でも、カウンターの内側から一歩も出られなくなっている自分に気づく。
「今日は……俺が手伝ってあげようか」
そう言うと彼はおもむろに立ち上がって、あろうことかカウンターの中に入ってきた。
――おかしい。
酔っ払っているのだろうか、なんで来るの……?
足がすくんで、動けない。
――帰ってほしい。
でも、どう言えばいい?
「一杯、付き合ってくれない?」
「……私は仕事中なので」
そう言うと、男性は肩をすくめて笑った。
「真面目だな。でもさ」
ぐっと、距離が詰まる。
香水の匂いが、急に近い。
「こんな時間に、女の人ひとりって――」
言葉の続きを聞きたくなくて、思わず一歩下がった。
背中が、壁際に当たる。
――怖い。
あと数センチで私の肩に触れる、その瞬間。
チリン、と鈴が鳴った。
反射的にそちらを見る。
扉の近くに、見慣れたシルエットが映る。
「……遅くなった」
怜さんだった。
それだけで、膝の力が抜けそうになる。
空気が一変した。
「もう閉店時間です」
怜さんは静かに言った。
声は低く、落ち着いている。
「え、まだ――」
「店主として言っています。お引き取りください」
怒鳴らないけれど、圧のある言い方。
こんな怜さん、初めて見た。
男性は一瞬、何かを言いかけて――諦めたように立ち去った。
扉が閉まり、鍵がかかる。
その音を聞いた途端、身体の奥から震えが込み上げてきた。
「……せな」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
――ずっとあなたに、そう呼んでもらいたかった。
怜さんは、私の様子を一目見て何も言わずに近づいた。
肩に、そっと手が置かれる。
「もう大丈夫だ」
その一言で、涙が滲んだ。
良かった……怜さんがちょうど来てくれて。
「……すみません」
「何が」
「一人で……大丈夫だと思って……」
声が、震える。
怜さんの手が、少しだけ強くなって――気づけば、その腕に抱き寄せられていた。
じわり、と伝わる彼の匂い。
私たちの距離が一気に縮まった。
「俺が悪い」
「怜さん……」
「君を、一人にするべきじゃなかった」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
守ろうとしてくれた気持ちが、痛いほど伝わったから。
――ああ。
この人が来なかったら、この人が間に合わなかったら。
そう考えて、初めて分かった。
私は、怜さんがいない夜を――もう、当たり前だと思えなくなっている。
あたたかい……彼のぬくもりが、私の心の奥にあった氷をじっくりと溶かしていく。
そう。
守られた瞬間に生まれる想いが、ただの感謝だけで済むはずがなかった。
けれど、今はただ何も考えずにこのままでいたかった。
◇◇◇
店の鍵をかけたあとも、しばらくその場から動けなかった。
――間に合った。
それだけが、頭の中を占めている。
遅くなると分かっていながら、せなを一人にした。
大丈夫だと思ったし、任せられると思った。
それは事実だ。
けれど――
扉を開けた瞬間に見た光景が、すべてを裏切った。
カウンターの内側。
せなの背中が、逃げ場を失っている距離。
相手の男の声は低く、甘ったるい。
あの一瞬で、理解してしまった。
これは、仕事じゃない。
「もう閉店時間です」
自分の声が、思った以上に冷たかったのは分かっている。だが、抑えられなかった。
あの男を追い返したあと、鍵をかけた。
振り返ると、せなが立っていた。
泣きそうな顔をして、肩が震えている。
「……せな」
名前を呼んだだけで、彼女の表情が崩れた。
それを見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
――俺は、何をしている。
距離を取る?
線を引く?
年齢がどうとか、立場がどうとか。
そんな理屈は、この状況では何の役にも立たない。
肩に手を置くと、震えが掌に伝わる。
「もう大丈夫だ」
それは従業員への言い方でなく、守る相手への言い方だった。
思わず――彼女を抱きしめた。
誰にも渡したくない、どこにも行かせたくなくて。
「俺が悪い」
そう言った瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れた。
今まで、どれだけ自分に言い聞かせてきた?
距離を取るのが正しい、踏み込まないのが大人だと。
だが――
踏み込まずにいられるなら、こんなことはしない。
彼女だって、あんな顔にはならない。
――気づいてしまった。
きっともう、前みたいには戻れない。
せなを離すと、彼女の瞳が潤んでいた。
そんな顔をされると……離れられなくなるだろう?
それとも、今日は――
「怜さん……私、怖かったから……」
「……」
「もう少し……一緒にいて」
そう言われてもう一度、きつく抱き寄せた。
この想いだけは、もう手放せない――どれほど危ういものであっても。
守るだけで済むなら、楽だった。
だが――
もう、それでは足りない。




