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8. 意識させてしまっているなら

 夏の後半でも、夜は生ぬるい風が吹いている。

 そんなある日の閉店間際。

 

 客足が落ち着き、店内には落ち着いたジャズだけが流れていた。

 カウンターの端に、松永先生が腰を下ろしている。

 いつもより遅い時間だ。


「こんばんは。今日は珍しいですね」

「仕事が少し長引いて」


 それだけ言って、メニューを見るでもなく視線を上げる。


「今日は、怜さんに任せようかな」

「……かしこまりました」


 怜さんがグラスを取りに動く。

 私はその背中を一瞬だけ見て、すぐに別のテーブルへ向かった。

 ――最近、こうだ。

 仕事としては何も問題ない、むしろ連携は取れている。

 でも視線が合わなくて、言葉も必要最低限。


 カウンターに戻ると、松永先生の前にグラスが置かれていた。いつもの、静かな一杯。

 一口含んでから、松永先生はふっと息を吐いた。


「……変わらないな」

「そうですか」

「ああ。良い意味で」


 そこで、視線が私に向く。


「桜野さん」

「はい」

「最近、よく頼まれてるな」

「……おかげさまで」


 そう言いながら、怜さんの方を見てしまう。

 彼は、棚の整理をしていてこちらを見ていない。

 松永先生は、その様子を黙って眺めていた。


「怜さん」

「……はい」


 呼ばれて、ようやく顔を上げる彼。


「少し、彼女と距離を取ってる?」

「……仕事ですから」


 こう即答されると、胸がざわつく。

 仕事だとわかっているのに、何かを求めてしまう。

 優しい言葉や表情じゃなくていい、包み込むようなあたたかさじゃなくていい、もっと普通のやり取り。

 怜さんだったら、どんな普通でも嬉しいのに。

 

 松永先生は首を振って言う。


「仕事にしては、不自然だな」


 一瞬、空気が止まった。


「以前は、もっと自然だった。必要なときに声をかけて、目を見て、任せるところは任せていた」

「……」

「今は……触れないようにしているように、見える」


 怜さんが、珍しく言葉を失う。

 私は、息をするのを忘れていた。

 ――やっぱり、気のせいじゃなかったんだ。

 しかもお客さんに気づかれるほどに、私たちは不自然に見えていたなんて。


「桜野さんが一人で回せるようになったのは、良いことだがな」


 グラスを置く音が、静かに響く。


「距離を取ることで守れるものもあるが、距離を取ることで傷つく人もいる。特に、理由を知らない側は」


 胸の奥が、きゅっと締まる。

 私の気持ちまで、顔や仕草に出ていたのだろうか……恥ずかしい。


「……すみません」


 思わずそう言ってしまった。

 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 けれど、お客さんに気をつかわせてしまった。ちゃんと説明しなきゃ。


「……お気遣いいただきありがとうございます。私もだいぶ慣れてきたので、任せていただいてるんです。私は……だ、大丈夫ですので」


 明らかに声がうわずっていた。

 こんな言い方で誤魔化そうと思っても……難しいのに。

 

「そうか。それならいいのだが」


 松永先生は、穏やかに続けた。


「ただ……距離を取っている“つもり”で、距離を意識させてしまっているなら」

「……」

「それは、もう十分に近い証拠だな」


 それだけ言って、グラスを飲み干す。


「ごちそうさま」

「……ありがとうございました」


 松永先生は、静かに席を立った。

 扉が閉まる音がしても、すぐには動けなかった。

 怜さんが、私を見る――今夜、初めて。


「……せな」

「はい」


 一瞬、言葉を探す沈黙。


「さっきのことは……」

「……大丈夫です」


 本当は大丈夫じゃない。

 でも、怜さんに迷惑をかけたくない。

 けれど……


「距離を取られるより、怒られる方が……まだ分かりやすいです」


 怜さんの目が、わずかに揺れた。

 その視線を受け止めたまま、私は言った。


「私、ここで働くの……好きなので」


 それ以上は言わなかった。

 いや――言えなかった。


 仕事に慣れてきたからこそ、このBARのために頑張らないと。ちょっとしたことで甘えている場合ではない。

 そう自分に言い聞かせても……なかなか腑に落ちない。

 

 怜さんは何も返さず、ただグラスを拭いていた。

 けれど、その手は――少しだけ、止まっていた。

 店内には、相変わらずジャズが流れている。

 さっきまで穏やかに感じていた音が、今は少しだけ遠い。


「……閉店だな」


 怜さんが、ようやくそう言った。

 いつもと同じ声で、いつもと同じ言葉。


「はい」


 私はカウンターの端から、グラスを下げ始める。

 指先が少しだけ震えているのを、自分でも自覚していた。

 

 閉店作業は、二人とも無言だった。

 いつもより、きびきびと動いて片付けを済ませる。手を動かさないと、余計なことを考えてしまうから。

 階段に向かう前、怜さんが足を止めた。


「……せな」


 名前を呼ばれるだけで、胸が跳ねる。

 私は彼の顔を見た。


「今日は……本当に助かった」


 短い一言だった。

 普通の言葉のはずなのに、今日はやけに耳に残る。

 込み上げてくる気持ちを、必死でおさえた。

 

「いえ……こちらこそ」


 それだけ答えるのが精一杯だった。

 怜さんは何か言いかけたように口を開き、そして閉じる。結局、何も言わずに階段を上がっていった。


 二階へ向かう背中を見送りながら、私は胸の奥に残るざわめきを抱えたまま、三階へと足を向ける。


 距離を取られている。

 でも、切り離されたわけじゃない。

 その中途半端さが、余計に心を揺らす。


 部屋に戻りベッドに腰を下ろしても、なかなか休めなかった。

 松永先生の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


 ――距離を意識させてしまっているなら。


 それは、もう十分に近い証拠。

 近いという言葉が、怖くもあり、少しだけ嬉しくもあった。

 毎日BARで一緒にいれば、誰だって近くなる。それでも、この距離感は今の私にとっては……どう言えばいいのかわからない感情が湧き上がる。

 彼は、一体何を考えているのだろう。


 同じ頃、二階でもきっと……怜さんは眠れていない。

 根拠はないけれど、なぜかそう思えた。

 

 この距離は、守るためのものなのか。

 それとも――怖れているだけなのか。


 答えはまだ出ない。

 けれど確かに、今夜を境に私たちは“意識”するようになっていく。

 それだけは、はっきりと分かってしまった。

 


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