7. 小さな違和感
その変化に最初に気づいたのは、ある夜のことだった。
グラスを下げに戻ると、怜さんは少し距離を取って立っていた。視線を必要以上に合わせない。
(……あれ?)
私の胸に、小さな違和感が生まれる。
忙しいわけでもないし、機嫌が悪いようにも見えない。
もしかして私……何かやらかした?
聞いてみようか、でも……
店の営業には何の支障もない。
怜さんと私は、店主と従業員の関係なのだから。
けれど……寂しいな。
同じ建物で暮らしていて、同じ店で働いているのに、距離を置かれたようで。
甘えたいわけではない、安心したいわけでもない。ただ、こちらを向いてくれたら……それだけでいいのに。
その時、私を呼ぶようにチリン、と鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「あ……以前に」
その女性のことはよく覚えている。
私が初めて作ったカクテルを飲んでくれた人だ。
カウンターに案内すると、早速注文してくれた。
「今回もあなたにカクテルを作ってほしいの」
「はい……ぜひ。どのような気分ですか」
「今日は大きな仕事を終えたから……ご褒美、みたいな」
「そうだったんですね。ではお疲れ様の気持ちを込めて作ります」
そう言うと、女性は小さく笑った。
「前にね、あなたが作ってくれた一杯……帰ってからも、ずっと覚えてたの」
「……ありがとうございます」
ほんのりと心が温かくなる。
“覚えている”と言ってもらえるのは、思っていた以上に嬉しかった。
私だってあの夜、彼女が私の作った一杯を受け取ってくれたことを忘れていなかった。
今日も――彼女のために作ろう。
棚に目を向ける。
前回と同じにはしないけれど、まったく違うものでもない。
――今日は、“区切り”と“余韻”。
選んだのは、澄んだ色のリキュール。
そこに、少しだけ深みを足すための一滴。
氷をひとつ入れて、バースプーンでゆっくりと混ぜる。
前よりも、手元が落ち着いているのが自分でも分かった。
「今日は、ご褒美ですから」
香りづけは控えめで、主張しすぎないように。
「……どうぞ」と言って差し出すと、女性は少しだけ姿勢を正してグラスを手に取った。
一口含んだ瞬間、ふっと息を吐く。
「……あ、前より少し、大人の味」
「はい」
「……嬉しい」
その言葉に、思わず頬が緩んでしまう。
グラスの中身が、ゆっくりと減っていく。
「ありがとう。今日の仕事、ちゃんと終わらせられた気がする」
彼女の微笑んだ表情は、前に来たときよりも随分と晴れて見えた。
そうだ……お客さんに喜んでいただけていることに、自信を持たないと。怜さんのことばかり考えてないで、私は私で前に進もう。
そう思った途端、隣で彼の声がした。
「どうぞ。今日は無理しなくていい日だ」
怜さんが別の女性にグラスを差し出している。
ほのかに桃色をした、可愛いらしいカクテル。
「ありがとうございます……怜さんといると落ち着きます」
「そうか」
――胸がチクリとした。
どうして……いつもは何とも思わないのに。
私とあまり目を合わせなくなったのに、その女性には穏やかな視線を向けている彼。
いや……彼女はお客さんだから。でも……私だって“怜さん”ってもっと呼びたいのに。
「すみません、注文を」
「あ……はい!」
私は、別のお客さんのところに急いだ。
視界の隅では、まだ怜さんと女性が話している。
一度息をついてから「お待たせしました」と言った。
◇◇◇
――気づかれたか。
グラスを拭きながら、そう思った。
視線を合わせなかったのは、偶然ではない。意図的だ。
最近、せなの動きが目に入る。
手元の所作、声の出し方、客の表情を読む速さ。
どれも、最初に会った夜とは違っていた。
だからこそ、距離を取った。
同じ建物で暮らしていて、同じ店に立っている。
これ以上、立ち入りすぎるのは違う。
それに……俺は四十を過ぎている。
彼女の人生に、軽く踏み込んでいい年齢じゃない。
――そう、頭では分かっている。
せながカウンターで、客に向き合っている。
前よりも落ち着いた声で、選ぶ酒も迷いが少ない。
それを誇らしく思うのは、店主として当然だ。
それ以上の感情を持つ理由はない。ないはずだ。
女性客が微笑んで礼を言う。
せなも、少しだけ頬を緩めた。
その表情を見た瞬間、胸の奥で何かがわずかに揺れた。
もう俺がついていなくても、彼女はきちんと対応ができる。
喜ばしいはずなのに、どこか寂しい。さらに経験を積んでほしいと思う一方で、もっと自分を頼ってほしいとも思う。
こんなこと、今までのアルバイトに対しては思いもしなかった。
「どうぞ。今日は無理しなくていい日だ」
別の客に、いつもの言葉を渡す。
自分がよく使う、区切りの言葉だ。
余計な期待を持たせないための、距離のある言葉。
それなのに――
横目で、せなを探してしまう。
何か困っていることはないか。
さっきの一杯で、少しは自信を持てたか。
……何を見ている。
せなは従業員だ。
そう言い聞かせて、グラスを置く。
けれど、胸の奥に残るこの違和感は、距離を取ったせいで生まれたものなのか、それとも――特別な何かなのか。
自分でも、まだ分からないことにしておきたかった。
分かってしまえば、戻れなくなる気がして。




