6. カクテル一杯分の距離
あれから、少しずつ自分でもカクテルを作るようになった。シェイカーは使わずに、簡単にできるもの。
すると女性を中心に、少しずつ私のドリンクを頼まれることが増えてきた。女性ひとりでカウンター席に来てくれることも、多くなった気がする。
「女心は、同じ女性の方が分かるのかもな」
「そうですかね……」
怜さんは女心だけではなくて、どんな心の隣にも立ってくれそう。彼に会いたくて、このBARに通う人もいるのかもしれない。
怜さんに声を掛ける女性も多い。
けれど、彼が店の外で誰かと会うという話は聞いたことがなかった。
「怜さん、今日も素敵ですね」
「ありがとう」
こんな風に声を掛けられることは珍しくない。
それでも怜さんは笑って受け流すだけだ。
色々考えてはいたが、私はBARに来てくれたその人の“今”を大切にしようと思い、目の前の対応に集中することにした。
その夜は、閉店後もすぐには照明を落とさなかった。
最後の客を見送り、静かに扉を閉める。
「……今日は、ここまでだな」
怜さんが、いつものようにカウンターを整える。
私はグラスを下げながら、少しだけ迷っていた。前からやりたかったことがある。言おうか、やめようか。
「あの……怜さん」
「ん?」
「……今日は私が一杯、作ってもいいですか」
怜さんの手が止まったが、そこまで驚いてはいなかった。
「俺に?」
「はい」
「……いい」
短くそう答えて、怜さんはカウンター席に回った。その動きが、いつもよりゆっくりに見える。
私は、グラスを一つ選ぶ。
彼がいつも自分で使っているものより、少しだけ小さい。
――怜さんの“今”。
忙しい夜のあと、人の話をたくさん聞いたあと、でも――疲れている顔はしない人。
だから、今日も“お疲れ様”の気持ちを込めて。
私は、棚の奥から一本のボトルを選んだ。
主張しすぎない香りで、口に残らない後味のもの。柑橘とほんの少しの苦味を加えて、甘さは控えめに。
氷を一つ入れて混ぜる手が、少しだけ震えた。深呼吸して、どうにか落ち着かせる。
ゆっくりとグラスに注いで、彼に差し出した。
「……どうぞ」
怜さんは何も言わず、受け取った。
一口飲んで、少しだけ目を伏せる。
今まで見てきたどのお客さんよりも、待つ時間が長く感じた。
「……静かだな」
「……はい」
「よく、見てる」
それだけで、胸が熱くなってくる。
私はあなたのこと……確かによく、見ていた。
「今日は、これがちょうどいいな」
怜さんは、グラスを置いて立ち上がった。
「次は、俺から」
そう言って、今度は彼がカウンターの内側に立つ。
私は、反対側の席に座った。
「どんな一杯がいい?」
「今日は少しだけ……自分を労ってもいい気がします」
怜さんは、頷いた。
選んだのは、深い色のボトルだった。
シェイカーを使わず、ゆっくり混ぜる仕草。
いつもと変わらない所作なのに、向けられる先が自分だと思うと、何となく期待してしまう。
「どうぞ」
「……いただきます」
一口。
――あ。
強くない。
でも、しっかり“夜が終わる”味。
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり沈んでいく。
「……落ち着きます」
「そうか」
怜さんは、微かに笑った。
カウンター越しに、視線が重なる。
私たちは、ただ同じ夜を過ごしているだけ――それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、もう少しだけ……怜さんと一緒にいたい。
「……せな」
「はい」
「君の一杯は、ちゃんと届いてる。客にも、俺にも」
怜さんの一杯だって、今こうして私に届いてる。
店内が、やさしい明るさに包まれる。
――この人となら。
そう思ったけれど、その続きをまだ言葉にはしなかった。
この先どうなるかなんて、まだ誰にもわからない。
今はきっと――
私と怜さんはカクテル一杯分の距離が、ちょうどいい。
そう思わないと、前に進めない気がした。
◇◇◇
閉店後の店は、静かだった。
最後の客を見送り、鍵をかける。
いつもなら、そのまま照明を落とす。
だが、今夜は――まだだった。
カウンターの向こうで、せながグラスを下げている。
動きはもう危なげがなくて、最初の頃よりも音が少なくなった。
カクテルを任せるようになってから、女性の客が増えた。彼女は、「何を飲みたいか」より「どう終わりたいか」を見ている。
「女心は、同じ女性の方が分かるのかもな」
軽く言ったが、本当はそれだけじゃない。
――人を見る目が、育ってきている。
グラスを整えていると、背後から声がした。
「あの……怜さん」
振り向く前に分かる――迷っている声だ。
「……今日は私が一杯、作ってもいいですか」
一瞬手が止まったが、いずれ言うだろうと思っていた。
座る側になると、店が少し違って見える。
せなが選んだグラスは、俺が普段使うものよりわずかに小さい。
――気づいている。
量じゃない、ということを。
棚の奥に手を伸ばすのを見て、内心で息を吐いた。
氷を一つ落とす音が、少しだけ高く感じる。
緊張しているが、悪くない。
差し出されたグラスを受け取り、一口。
……静かだ。
主張も雑音もない。
これまでも、アルバイトが俺にカクテルを作ってくれたことがある。どれも無難に飲みやすいものだ。
だがこれは、初めて味わう彼女の味。
気づいたら隣にいてくれるような、安心感。
「今日は、これがちょうどいいな」
それは本音だった。
立ち上がり、今度は俺がカウンターの内側に立つ。
前にも彼女に作ったことがあるのに、今日は何故か特別な気持ちになった。せなの顔を見ると、期待しているのが分かる。
それを、嬉しいと思ってはいけない。
だが、鼓動は嘘をつけなかった。
「どうぞ」
「……落ち着きます」
「そうか」
君の一杯は、ちゃんと届いている。
俺の中に。
――カクテル一杯分の距離。
それが崩れるときが、来てしまうのだろうか。
だが今は、まだ知らないふりをしよう。
この静かな味を、覚えてしまったことを。




