表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/17

6. カクテル一杯分の距離

 あれから、少しずつ自分でもカクテルを作るようになった。シェイカーは使わずに、簡単にできるもの。

 すると女性を中心に、少しずつ私のドリンクを頼まれることが増えてきた。女性ひとりでカウンター席に来てくれることも、多くなった気がする。


「女心は、同じ女性の方が分かるのかもな」

「そうですかね……」


 怜さんは女心だけではなくて、どんな心の隣にも立ってくれそう。彼に会いたくて、このBARに通う人もいるのかもしれない。


 怜さんに声を掛ける女性も多い。

 けれど、彼が店の外で誰かと会うという話は聞いたことがなかった。


「怜さん、今日も素敵ですね」

「ありがとう」


 こんな風に声を掛けられることは珍しくない。

 それでも怜さんは笑って受け流すだけだ。

 

 色々考えてはいたが、私はBARに来てくれたその人の“今”を大切にしようと思い、目の前の対応に集中することにした。

 

 その夜は、閉店後もすぐには照明を落とさなかった。

 最後の客を見送り、静かに扉を閉める。


「……今日は、ここまでだな」


 怜さんが、いつものようにカウンターを整える。

 私はグラスを下げながら、少しだけ迷っていた。前からやりたかったことがある。言おうか、やめようか。


「あの……怜さん」

「ん?」

「……今日は私が一杯、作ってもいいですか」


 怜さんの手が止まったが、そこまで驚いてはいなかった。


「俺に?」

「はい」

「……いい」


 短くそう答えて、怜さんはカウンター席に回った。その動きが、いつもよりゆっくりに見える。

 

 私は、グラスを一つ選ぶ。

 彼がいつも自分で使っているものより、少しだけ小さい。


 ――怜さんの“今”。


 忙しい夜のあと、人の話をたくさん聞いたあと、でも――疲れている顔はしない人。

 だから、今日も“お疲れ様”の気持ちを込めて。


 私は、棚の奥から一本のボトルを選んだ。

 主張しすぎない香りで、口に残らない後味のもの。柑橘とほんの少しの苦味を加えて、甘さは控えめに。


 氷を一つ入れて混ぜる手が、少しだけ震えた。深呼吸して、どうにか落ち着かせる。

 ゆっくりとグラスに注いで、彼に差し出した。


「……どうぞ」


 怜さんは何も言わず、受け取った。

 一口飲んで、少しだけ目を伏せる。

 今まで見てきたどのお客さんよりも、待つ時間が長く感じた。


「……静かだな」

「……はい」

「よく、見てる」


 それだけで、胸が熱くなってくる。

 私はあなたのこと……確かによく、見ていた。


「今日は、これがちょうどいいな」


 怜さんは、グラスを置いて立ち上がった。


「次は、俺から」


 そう言って、今度は彼がカウンターの内側に立つ。

 私は、反対側の席に座った。


「どんな一杯がいい?」

「今日は少しだけ……自分を労ってもいい気がします」


 怜さんは、頷いた。

 選んだのは、深い色のボトルだった。

 シェイカーを使わず、ゆっくり混ぜる仕草。

 いつもと変わらない所作なのに、向けられる先が自分だと思うと、何となく期待してしまう。


「どうぞ」

「……いただきます」


 一口。

 ――あ。


 強くない。

 でも、しっかり“夜が終わる”味。

 胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり沈んでいく。


「……落ち着きます」

「そうか」


 怜さんは、微かに笑った。

 カウンター越しに、視線が重なる。

 私たちは、ただ同じ夜を過ごしているだけ――それ以上でも、それ以下でもない。

 けれど、もう少しだけ……怜さんと一緒にいたい。


「……せな」

「はい」

「君の一杯は、ちゃんと届いてる。客にも、俺にも」


 怜さんの一杯だって、今こうして私に届いてる。

 店内が、やさしい明るさに包まれる。

 ――この人となら。

 そう思ったけれど、その続きをまだ言葉にはしなかった。


 この先どうなるかなんて、まだ誰にもわからない。

 今はきっと――

 私と怜さんはカクテル一杯分の距離が、ちょうどいい。

 そう思わないと、前に進めない気がした。



 ◇◇◇



 閉店後の店は、静かだった。

 最後の客を見送り、鍵をかける。

 いつもなら、そのまま照明を落とす。


 だが、今夜は――まだだった。


 カウンターの向こうで、せながグラスを下げている。

 動きはもう危なげがなくて、最初の頃よりも音が少なくなった。


 カクテルを任せるようになってから、女性の客が増えた。彼女は、「何を飲みたいか」より「どう終わりたいか」を見ている。


「女心は、同じ女性の方が分かるのかもな」


 軽く言ったが、本当はそれだけじゃない。

 ――人を見る目が、育ってきている。


 グラスを整えていると、背後から声がした。


「あの……怜さん」


 振り向く前に分かる――迷っている声だ。


「……今日は私が一杯、作ってもいいですか」


 一瞬手が止まったが、いずれ言うだろうと思っていた。


 座る側になると、店が少し違って見える。

 せなが選んだグラスは、俺が普段使うものよりわずかに小さい。


 ――気づいている。

 量じゃない、ということを。

 棚の奥に手を伸ばすのを見て、内心で息を吐いた。


 氷を一つ落とす音が、少しだけ高く感じる。

 緊張しているが、悪くない。

 差し出されたグラスを受け取り、一口。


 ……静かだ。

 主張も雑音もない。

 これまでも、アルバイトが俺にカクテルを作ってくれたことがある。どれも無難に飲みやすいものだ。

 だがこれは、初めて味わう彼女の味。

 気づいたら隣にいてくれるような、安心感。

 

「今日は、これがちょうどいいな」


 それは本音だった。

 立ち上がり、今度は俺がカウンターの内側に立つ。

 前にも彼女に作ったことがあるのに、今日は何故か特別な気持ちになった。せなの顔を見ると、期待しているのが分かる。


 それを、嬉しいと思ってはいけない。

 だが、鼓動は嘘をつけなかった。


「どうぞ」

「……落ち着きます」

「そうか」


 君の一杯は、ちゃんと届いている。

 俺の中に。


 ――カクテル一杯分の距離。


 それが崩れるときが、来てしまうのだろうか。

 だが今は、まだ知らないふりをしよう。

 この静かな味を、覚えてしまったことを。

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ