5. 私のための一杯
私がここにきて、一カ月が過ぎた。
夏の太陽に眩しく照らされたあと、夜になるとBAR LUPINE は客たちの疲れを癒す。
その日は、珍しく客足がゆるやかだった。
カウンターに並ぶグラスも少なく、空気に余裕がある。
私は、氷を補充しながら前に言われた言葉を思い返していた。
カクテルは、材料じゃない。
その人の“今”を考えるものだ。
――“今”。
カウンターに座ったお客さんの様子を観察して一瞬で判断する、ということだろうか。
考えていると、チリン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、三十代ぐらいの見慣れない女性だった。
仕事帰りらしく、肩に少し力が入っている。
「一名です」
私はカウンターへ案内する。
「ご注文は……」
「強いのは、今日はやめておきたくて」
それだけ言って、女性は小さく息を吐いた。
――今日の“今”。
私は、思わず怜さんを見る。
いつもなら、ここで合図を送る。
でも、その前に。
彼女のことを、もう少し聞いてみたい。
「……よろしければ、少しだけお話を聞いてもいいですか」
「え?」
女性は一瞬驚いたあと、頷いた。
「今日は、どんな一日でしたか」
「……頑張った、とは思います。でも、報われた感じはなくて」
胸の奥が、静かに滲んでゆく。
頑張ってもこれでいいのかわからない、そう思うことはよくある。きっと真面目な人なのだろう。
私は、静かに息を吸った。
「……あの、怜さん」
「ん?」
「この方に、合いそうな一杯……私から提案しても、いいですか」
店内の空気が、一瞬止まる。
怜さんは私を見て、少し考えてから頷いた。
「いい。やってみるんだ」
背中が少しだけ熱くなった。
私は棚を見る――派手なものは、違う。甘すぎるのも、違う。
選んだのは、透明に近いリキュールと柑橘。
それから、ほんの少しだけハーブ。
「……今日は、“頑張ったあと用”です」
怜さんの真似をしてみたものの、自分で言って少し恥ずかしくなる。彼が言うと決まるのに。
怜さんは、横で黙って見ている。手は出さない。
緊張と安心が半々の状態で、私はとにかく手を動かす。
氷は一つで、シェイカーは使わずにゆっくり混ぜる。
――大丈夫、落ち着いて。
グラスに注ぎ、最後に柑橘の皮を軽くひねった。
「どうぞ」
女性は少し戸惑いながらも口をつけて、ふっと肩を落とした。
「……強くないですね」
「はい」
「でも……ちゃんと飲んだ感じがします」
その言葉に、私もほっと一息つく。
「ありがとう。今日は満足です」
女性はそう言って微笑んだ。
私にもできた……のかな。
カウンターの内側で、私は怜さんの方を見つめる。
「……大丈夫だったでしょうか」
小声で聞くと、怜さんはすぐには答えなかった。
グラスを一つ拭いてから言う。
「完璧じゃない」
「……」
「でも、“今”は外してない」
良かった。
誰かに寄り添うことは簡単ではないけれど、いつか私にもできるといいな。
そう、怜さんみたいに……
「あの……直すとしたら?」
「……もう一滴、甘さを足してもいいかもしれない。でも、それは次だな」
そう言って、少しだけ笑った。
私は深く頷いた。
怜さんに“次”を期待されているように言われて、私なりに頑張ってみようと気合いが入る。
「……はい」
カウンターの向こうで、女性が静かにグラスを傾けている。さっきよりも表情が柔らかい。
――きっと少しずつここで役に立てている。
そう思えた夜だった。
◇◇◇
別の日の夜。
カウンターには綾小路先生、松永先生、薫さんが並んでいる。
「せな……君の想いが欲しい。甘めの一杯を俺にくれないか」
「綾小路先生、すぐに口説こうとするな。俺も、桜野さんの作ったカクテルが欲しい」
「松永先生まで……俺の筋肉を呼び覚ます一杯を、ぜひ君に作っていただきたい」
三人に同時に言われて、私は言葉を失った。
「え……えっと……」
視線が泳ぐ。
綾小路先生は楽しそうに口元を緩め、松永先生は静かに待ち、薫さんは腕を組んで余裕の笑みを浮かべている。
イケオジたちに見つめられるだけでも鼓動が速くなるのに、私の作った一杯が欲しいだなんて。
――でも難しい。
三人分別々のカクテルを一度に考えるなんて、まだ。
私は、ふっと息を吐いた。
「……あの」
三人の視線が、私に集まる。
「全部は、できないかもしれません」
一瞬の沈黙。
今回は怜さんの方を見なかった。
自分で言わなきゃいけない気がした。
「でも……今ここにいる三人に共通する一杯なら、作れます」
綾小路先生が、面白そうに眉を上げる。
「ほう?」
「共通点……?」
松永先生が、低く問い返す。
私は、カウンターに並ぶ三人を改めて見る。
言葉を紡ぐ人、背中をそっと支える人、己と向き合う人。
それぞれの役割はあるけれど、今夜の三人は肩の力を抜いてここに座っている。
「……今日は、みなさん“頑張ったあと”だと思うんです」
声が、少しだけ震えた。
「だから……強すぎなくて、甘すぎなくて、でも……ちゃんと満たされる一杯を」
綾小路先生が頷き、松永先生が微笑み、薫さんの胸筋がぴくりと動いた。
「いいじゃないか」
「その説明だけで、もう半分飲んだ気分だ」
「じゃあ、君に預けよう」
ああ良かった……それなら頑張ろう。
まずはグラスを三つ並べる。同じ形で同じ高さだ。
――今日は、平等に。
氷は、一つずつ。
音が揃うように、丁寧に。
選んだのは、淡い色のリキュール。
そこにほんの少しの甘みと、香り。
手が震えないよう、呼吸を整える。
混ぜる速度は、ゆっくり。
怜さんの所作を、思い出しながら。
最後に、柑橘の皮を軽くひねる。
香りが、三つのグラスに同時に落ちた。
「……どうぞ」
三人が、ほぼ同時にグラスを手に取る。
一口飲んだ次の瞬間だった。
「……やさしいな」と松永先生が、まず言ってくれた。
「甘いけど、逃げない」と綾小路先生が、言葉を選ぶように続ける。
「筋肉が……落ち着く」と薫さんが真顔で言い、すぐに笑った。
「よかったです……」
彼らの表情を見て私は、ようやく解き放たれたような気がした。
その時だった。
「……せな」
怜さんの声だった。
ほんの一瞬、気配が近づいた気がした。
それだけなのに、もう心臓がうるさく鳴っている。
「これは、君のための一杯だな」
「え……」
あたたかな眼差しに、吸い寄せられそうになる。
私のための、一杯?
「これからも、少しずつでいい。君の一杯を振る舞ってくれ」
「は……はい!」
怜さんに認めてもらえた。
私がここに来てから、初めて自信を与えられた瞬間だった。




