4. それは、あの鼓動
閉店後の店は音が少ない。
グラスを拭く音も、氷を片付ける音も、いつもより小さく聞こえる。
今日も無事に終わった。
カウンターを一通り整えてから、俺は一度だけ天井を見上げた。
――三階。
眠れただろうか。
一昨日に鍵を渡したときの彼女の手は、少し冷たかった。
無理をしている人の手だと思った。しっかりと触れたわけじゃない。ただ、空気で分かる。
せなは、よく気がつく。
客の声にも、視線にもすぐに対応する。
だからこそ失敗しないように、失望されないように、ずっと力を入れて生きてきたんだろう。
――ああいう人は、壊れるときが早い。
だから、褒めた。
特別な言葉は使っていない。
事実だけを、そのまま伝えただけだ。
人は、救われたいわけじゃない。
ただここにいていいと思えれば、それで立ち直る。
水を一口飲み、照明を落とす。
店の灯りが消えると、建物全体が眠る準備を始める。
階段を上がり、もう一度だけ三階を見る。
音はしない。
でも、気配はある。
「……ゆっくりでいいんだ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
今はまだ、様子を見たい。
踏み込まなくても、見守ることはできる。
二階の部屋に戻り、鍵を閉める。
その夜、俺は久しぶりに夢を見ずに眠った。
◇◇◇
翌日の夜は、雨も風もなく静かだった。
店の扉を開けておくと、外の空気が静かに流れ込んでくる。
最初にここに来た時は梅雨の匂いが重かったのに、今日はこの季節も悪くないと思えた。
私はグラスを並べ、カウンターを拭く。
まだ三日目だけど、少しだけ動きが滑らかになった気がする。
チリン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは筋骨隆々の男性。年齢は分からないが、落ち着いた雰囲気だった。
シャツの胸元は第二ボタンまで外していて、鍛え上げられた胸筋を覗かせている。
そして、近づく前から分かった。
――香り。
香水ではなくて、生活に近い匂い。
「こんばんは」
「カウンターへどうぞ」
「ありがとう」
男性は席に着くと、ゆっくり店内を見渡した。
そして、私に視線を向けて微笑む。
「……新しい顔だね」
「はい。アルバイトの桜野です」
「そうか。俺はここの常連で薫っていうんだ。時計店をしている」
そのあと、薫さんは怜さんを見る。
「怜さん、今日は彼女がいるんだな」
「ああ」
それだけのやり取りだが、二人の間には説明のいらない空気があった。
「……おすすめをもらおうか」
私は一瞬迷ってから、正直に言った。
「まだ勉強中なので……怜さんと一緒でも、いいですか」
「いい判断だ」
薫さんは、くすりと笑った。
私は怜さんに「お願いします」と合図をする。
「薫、今日は軽めだな」
「分かる?」
「顔に出てる」
薫さんは肩をすくめた。
「筋トレにあまり時間が取れなくてね」
彼は、時計店の業務の合間にトレーニングをしているらしい。それでも、あの隆々とした筋肉は……中途半端な努力だけでは身につかないだろう。
怜さんは、細身のグラスを選んだ。氷は入れない。
注がれた液体はほとんど透明で、光を受けてわずかに白く揺れる。
最後に、ミントを一枚――指で軽く叩いてから、落とした。
「どうぞ」
一口飲んで、薫さんは目を細める。
「……懐かしいな」
「そうだろ」
「昔の夜を思い出す」
「というと?」
「まだ……筋肉が出来上がってなかった頃だな。あの時は、ベンチを上げるのに苦労していたものだ」
「せな。薫はいつも己の筋肉と向かい合ってる。ストイックだろ?」
「はい……集中力がすごいと思います」
そのとき、チリン、と鈴が鳴った。
「こんばんは」
「さっき、たまたまそこで会ってね」
綾小路先生と松永先生だった。
「薫、来てたのか」
「久しぶりだな」
自然に三人が並ぶ。
綾小路先生は楽しそうに笑い、松永先生は静かに頷く。
それぞれが、違う距離で同じ空間にいる。
彼らと怜さんは、昔からの仲間のような雰囲気を醸し出す。
私は、その様子を見ながら思う。
このBARは、誰かを主役にしない。
ただ、それぞれが“今の自分”で座れる場所だ。
カウンターの向こうで、怜さんが静かにグラスを磨いている。
――私も、ここにいていい。
そう思えた夜だった。
◇◇◇
店が少し落ち着いた頃だった。
グラスの数が減り、BGMがやけに耳に残る。
「せな」
綾小路先生が、カウンター越しに私を呼ぶ。
「はい」
近づくと、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「……君、物語の途中って感じだ」
「え……?」
「まだまだこれから、素敵な出会いが待っている」
「はぁ……」
「おい、綾小路先生。桜野さんが困ってるじゃないか」
こう言うのは松永先生だった。
正直、少し助かった。
「元教師の癖でな。余計なことを言うが聞き流してくれていい」
「はい……」
「人ってな、立て直すときほど、先を考えすぎる」
私は、何も言えずに立ち尽くす。
「でもな……今日の授業を、今日終えればいい日もある」
その一言で、肩の力が抜けた。
「……今日は、今日の分だけでいいのさ」
教師らしい言い方だなと思った。
綾小路先生も松永先生も、私のことをわかっているかのよう。
つまり合わせると……無理なく頑張れば、いい出会いがあるってことだろうか。
思わず怜さんの方を見ると、彼もこちらを向いた。
優しい視線に、胸の鼓動が速くなってしまう。
「……おっと、胸の筋肉が痛むか?」
今度は薫さんだ。
私がドキドキしているのがわかったのだろうか。
「それは……“あの鼓動”だな」
顔が真っ赤になる。
やだ……恥ずかしい。
恋愛なんて、私にはもう……
それでも、怜さんを見ると何というか……
「せな、向こうのお客さんが」
「は……はい!」
私は慌てて、テーブル席のほうに向かった。
彼の顔が頭によぎったけれど、いったん片隅に置いて仕事に集中した。
――それからもカクテルを運んだり、お客さんの相手をしたりするうちに、今日の営業が終わった。
グラスを片付けて、テーブルを拭く。
『それは……“あの鼓動”だな』
まだ薫さんの声がリフレインしている。
離婚したばかりだし、今の私に恋なんて似合わない。
「せな」
怜さんがそっと近づいてきた。
そのまま、私の背中に手を添える――寸前で止めた。
なのに……彼のぬくもりが伝わってくる。
「あ……怜さん」
「すまないな」
「いえ……」
「気にすること、ないからな」
綾小路先生や松永先生、薫さんに言われたことだ。
そう言われると、余計に気にしてしまう。
怜さんは、どう思ったのだろうか。
「あの……」
「ん?」
「離婚した原因、私にもあるかもって思いました」
怜さんは何も言わずに聞いてくれた。
私は続ける。
「つい先のことを考えて慎重になるというか、ちゃんとしなきゃって思って……啓一は窮屈に思ってたのかも」
そう言うと、彼は私の目をじっと見つめる。
また……顔が熱くなってきそう。
「……もしそう思っていたとしても、外で別の人に会うのは違う。きちんと君と話し合うべきだったんだ」
「え……」
「それに……少なくとも俺は、君が来てくれて嬉しい」
その言葉で、身体の内側がじわりと熱くなった。
怜さん……どうしてそんなに優しいの。
そんなこと言われたら私、あなたのこと……
「さぁ、今日はもう休むんだ」
「はい……おやすみなさい」




