表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/20

4. それは、あの鼓動

 閉店後の店は音が少ない。

 グラスを拭く音も、氷を片付ける音も、いつもより小さく聞こえる。


 今日も無事に終わった。

 カウンターを一通り整えてから、俺は一度だけ天井を見上げた。

 ――三階。

 眠れただろうか。


 一昨日に鍵を渡したときの彼女の手は、少し冷たかった。

 無理をしている人の手だと思った。しっかりと触れたわけじゃない。ただ、空気で分かる。


 せなは、よく気がつく。

 客の声にも、視線にもすぐに対応する。

 だからこそ失敗しないように、失望されないように、ずっと力を入れて生きてきたんだろう。


 ――ああいう人は、壊れるときが早い。


 だから、褒めた。

 特別な言葉は使っていない。

 事実だけを、そのまま伝えただけだ。


 人は、救われたいわけじゃない。

 ただここにいていいと思えれば、それで立ち直る。


 水を一口飲み、照明を落とす。

 店の灯りが消えると、建物全体が眠る準備を始める。

 階段を上がり、もう一度だけ三階を見る。


 音はしない。

 でも、気配はある。


「……ゆっくりでいいんだ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 今はまだ、様子を見たい。

 踏み込まなくても、見守ることはできる。


 二階の部屋に戻り、鍵を閉める。

 その夜、俺は久しぶりに夢を見ずに眠った。



 ◇◇◇



 翌日の夜は、雨も風もなく静かだった。

 店の扉を開けておくと、外の空気が静かに流れ込んでくる。

 最初にここに来た時は梅雨の匂いが重かったのに、今日はこの季節も悪くないと思えた。


 私はグラスを並べ、カウンターを拭く。

 まだ三日目だけど、少しだけ動きが滑らかになった気がする。


 チリン、と鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 そこに立っていたのは筋骨隆々の男性。年齢は分からないが、落ち着いた雰囲気だった。

 シャツの胸元は第二ボタンまで外していて、鍛え上げられた胸筋を覗かせている。


 そして、近づく前から分かった。

 ――香り。

 香水ではなくて、生活に近い匂い。

 

「こんばんは」

「カウンターへどうぞ」

「ありがとう」


 男性は席に着くと、ゆっくり店内を見渡した。

 そして、私に視線を向けて微笑む。


「……新しい顔だね」

「はい。アルバイトの桜野です」

「そうか。俺はここの常連で(かおる)っていうんだ。時計店をしている」


 そのあと、薫さんは怜さんを見る。


「怜さん、今日は彼女がいるんだな」

「ああ」


 それだけのやり取りだが、二人の間には説明のいらない空気があった。


「……おすすめをもらおうか」


 私は一瞬迷ってから、正直に言った。


「まだ勉強中なので……怜さんと一緒でも、いいですか」

「いい判断だ」


 薫さんは、くすりと笑った。

 私は怜さんに「お願いします」と合図をする。


「薫、今日は軽めだな」

「分かる?」

「顔に出てる」


 薫さんは肩をすくめた。


「筋トレにあまり時間が取れなくてね」


 彼は、時計店の業務の合間にトレーニングをしているらしい。それでも、あの隆々とした筋肉は……中途半端な努力だけでは身につかないだろう。

 

 怜さんは、細身のグラスを選んだ。氷は入れない。

 注がれた液体はほとんど透明で、光を受けてわずかに白く揺れる。

 最後に、ミントを一枚――指で軽く叩いてから、落とした。


「どうぞ」


 一口飲んで、薫さんは目を細める。


「……懐かしいな」

「そうだろ」

「昔の夜を思い出す」

「というと?」

「まだ……筋肉が出来上がってなかった頃だな。あの時は、ベンチを上げるのに苦労していたものだ」


「せな。薫はいつも己の筋肉と向かい合ってる。ストイックだろ?」

「はい……集中力がすごいと思います」


 

 そのとき、チリン、と鈴が鳴った。


「こんばんは」

「さっき、たまたまそこで会ってね」


 綾小路先生と松永先生だった。


「薫、来てたのか」

「久しぶりだな」


 自然に三人が並ぶ。

 綾小路先生は楽しそうに笑い、松永先生は静かに頷く。

 それぞれが、違う距離で同じ空間にいる。

 彼らと怜さんは、昔からの仲間のような雰囲気を醸し出す。


 私は、その様子を見ながら思う。

 このBARは、誰かを主役にしない。

 ただ、それぞれが“今の自分”で座れる場所だ。


 カウンターの向こうで、怜さんが静かにグラスを磨いている。

 ――私も、ここにいていい。

 そう思えた夜だった。



 ◇◇◇

 


 店が少し落ち着いた頃だった。

 グラスの数が減り、BGMがやけに耳に残る。


「せな」


 綾小路先生が、カウンター越しに私を呼ぶ。


「はい」


 近づくと、意味ありげな笑みを浮かべていた。


「……君、物語の途中って感じだ」

「え……?」

「まだまだこれから、素敵な出会いが待っている」

「はぁ……」

「おい、綾小路先生。桜野さんが困ってるじゃないか」


 こう言うのは松永先生だった。

 正直、少し助かった。


「元教師の癖でな。余計なことを言うが聞き流してくれていい」

「はい……」

「人ってな、立て直すときほど、先を考えすぎる」


 私は、何も言えずに立ち尽くす。


「でもな……今日の授業を、今日終えればいい日もある」


 その一言で、肩の力が抜けた。


「……今日は、今日の分だけでいいのさ」


 教師らしい言い方だなと思った。

 綾小路先生も松永先生も、私のことをわかっているかのよう。

 つまり合わせると……無理なく頑張れば、いい出会いがあるってことだろうか。


 思わず怜さんの方を見ると、彼もこちらを向いた。

 優しい視線に、胸の鼓動が速くなってしまう。


「……おっと、胸の筋肉が痛むか?」


 今度は薫さんだ。

 私がドキドキしているのがわかったのだろうか。


「それは……“あの鼓動”だな」


 顔が真っ赤になる。

 やだ……恥ずかしい。

 恋愛なんて、私にはもう……

 それでも、怜さんを見ると何というか……


「せな、向こうのお客さんが」

「は……はい!」


 私は慌てて、テーブル席のほうに向かった。

 彼の顔が頭によぎったけれど、いったん片隅に置いて仕事に集中した。



 ――それからもカクテルを運んだり、お客さんの相手をしたりするうちに、今日の営業が終わった。

 グラスを片付けて、テーブルを拭く。


『それは……“あの鼓動”だな』


 まだ薫さんの声がリフレインしている。

 離婚したばかりだし、今の私に恋なんて似合わない。


「せな」


 怜さんがそっと近づいてきた。

 そのまま、私の背中に手を添える――寸前で止めた。

 なのに……彼のぬくもりが伝わってくる。


「あ……怜さん」

「すまないな」

「いえ……」

「気にすること、ないからな」


 綾小路先生や松永先生、薫さんに言われたことだ。

 そう言われると、余計に気にしてしまう。

 怜さんは、どう思ったのだろうか。


「あの……」

「ん?」

「離婚した原因、私にもあるかもって思いました」


 怜さんは何も言わずに聞いてくれた。

 私は続ける。


「つい先のことを考えて慎重になるというか、ちゃんとしなきゃって思って……啓一は窮屈に思ってたのかも」


 そう言うと、彼は私の目をじっと見つめる。

 また……顔が熱くなってきそう。


「……もしそう思っていたとしても、外で別の人に会うのは違う。きちんと君と話し合うべきだったんだ」

「え……」

「それに……少なくとも俺は、君が来てくれて嬉しい」


 その言葉で、身体の内側がじわりと熱くなった。

 怜さん……どうしてそんなに優しいの。

 そんなこと言われたら私、あなたのこと……


「さぁ、今日はもう休むんだ」

「はい……おやすみなさい」

 


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ