3. その人に合う味
閉店の札を裏返すと、店内が少しだけ広く感じられた。
さっきまで人の声が満ちていた空間に、静けさが戻ってくる。
「お疲れさま」
怜さんが、いつもの落ち着いた声で言う。
「お疲れさまでした……!」
緊張が抜けた途端、肩がずしんと重くなった。
久しぶりの立ち仕事、それに人の視線。
BAR LUPINEは、洗練され落ち着いた大人が集まる場所……今の自分には合うのかがわからない。
私は空いたグラスを下げながら、次に何をすればいいのかを頭の中で確認する。
「……あ」
そのときだった。
指が滑りグラスが一つ、カウンターの縁で不安定に揺れた。
――カラン。
床に落ちる前に怜さんの手が伸び、ぱし、と乾いた音がした。グラスは割れず、怜さんの手の中に収まっていた。
「……すみません!」
反射的に頭を下げる。
お客さんが帰って、気が抜けていたかもしれない。
「大丈夫」
彼の声は低く、静かだった。
責める響きは、どこにもない。
「初日だ。むしろ、ここまでよくやった」
「……え?」
怜さんはグラスを置き、いつも通り布巾で水滴を拭き取る。
「声の出し方も、動きも悪くない。客の顔もちゃんと見てた」
それは淡々とした言い方だったけれど、よく見ていなければ出てこない言葉だった。あんなに多くのお客さんがいた中で、私のことまで……?
そう思うだけで、顔が火照ってきてしまう。
「……ありがとうございます」
彼からの言葉ひとつひとつが、じんと沁み入る。
私は褒められることに慣れていない。
仕事をしていた頃も、結婚していた頃も、“できて当たり前”が多かったから。
「失敗は、隠さなくていい」
怜さんは、グラスを磨きながら続ける。
「割れたら割れたで、片付ければいい。無理して平気な顔をする方が……よっぽど危ない」
その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まった。
まるで、今までの私を知っているかのように。
これまでの私は何事も失敗しないようにと、気が張っていることが多かった。
多分そんな私だったから――
啓一も、息が詰まっていたのかもしれない。
「……はい」
店内の灯りを少し落とすと、カウンターに柔らかな影が伸びた。
「何か、飲むか?」
不意に、怜さんが言った。
「え……私も、ですか?」
「ああ。今日はよく動いたからな」
怜さんは、前のグラスとは別のものを選んだ。
少しだけ背が低く、手に収まりのいい形。
氷は一つで、注がれるのはほとんど色のない液体。
香りは、ほんのりと柑橘。
「これは……?」
「今日は“お疲れさま用”」
それだけ言って、差し出される。
「……いただきます」
一口飲むと……強くないことがわかった。
でも、身体の奥にすっと入ってくる。
立ちっぱなしだった足が、ようやく床についた気がした。
「……落ち着きます」
「それなら、よかった」
怜さんは自分の分は作らず、水を一口飲む。
カウンターの向こうとこちら。
アルバイト中よりも、カウンターの高さが少し低くなった気がした。
「……せな」
名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
「この店では急がなくていい。覚えるのも、慣れるのも」
私はグラスを両手で包み、小さく頷く。
「……はい」
閉店後のBARは、静かだった。
でもひとりじゃないと分かる静けさは、こんなにも心を休ませてくれる。
怜さんだから……なのかな。
この場所でなら、私はもう少しゆっくりでいい。
そう思えた夜だった。
◇◇◇
翌日の夜。
私はテーブルを拭きながら、準備を進めていた。
すると今日もチリン、と音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
「フフ……こんばんは」
そこに立っていたのは、四十代後半ぐらいの大柄な男性。大きい上に少し怖い顔つきで、思わずびくっとしてしまったが――声は穏やかだった。
「カウンターへどうぞ」
「ありがとう」
男性はカウンターに向かい、怜さんに挨拶をしていた。
「……アルバイト、ずっと欲しがってたもんな」
「はい、昨日からなんですよ。松永先生」
松永先生、と呼ばれたその男性。綾小路先生のようなどこかの講師だろうか。そして背中に溢れる常連感。
「俺は松永弦一郎。昔は教師をしていた」
「はじめまして。アルバイトの桜野です」
「怜さんは君が来てくれて喜んでいるよ。顔つきがいつもと違う」
「え……?」
そう言われると怜さんのこと、もっと意識しちゃう。
……だめだ、今は仕事中。集中しなくちゃ。
「……じゃあ今日のおすすめを」
「かしこまりました」
そう答えたものの、私は一瞬だけ怜さんを見る。
昨日の綾小路先生のときと同じだ。
――自分一人では決めきれない。
怜さんは私の視線に気づくと、何も言わずにカウンターの内側に立った。
「松永先生、今日は長かったですか」
怜さんが、柔らかな声で尋ねる。
「ああ……まあな。少しだけ」
やんわりと答える松永先生だったけれど、それだけで十分だったのだろう。
怜さんは、頷いてボトル棚に手を伸ばした。
選んだのは、背の低いボトル。
ラベルの色は落ち着いていて、派手さはない。
「強すぎるのは、今日は違いますよね」
「……助かる」
短いやり取り。
でも、長年の信頼が滲んでいる。
怜さんは氷を二つ、グラスに落とした。
カラン、カラン。
昨日よりも、少し低い音。
注がれた液体は、深い色。
琥珀というより、夜の木陰のような濃さだった。
シェイカーは使わない。
ゆっくりと、バースプーンで混ぜるだけ。
くるり、くるり。
回る氷を見ていると、時間まで緩んでいく気がする。
「今日は、これで」
怜さんは最後に、柑橘の皮をほんの少しだけひねった。
香りは控えめで、主張しない。
グラスが松永先生の前に置かれる。
「どうぞ」
「……いただく」
一口飲んで、松永先生は目を伏せて息を吐いた。
「……染みるな」
その一言に、怜さんは小さく笑った。
「でしょう」
私はそのやり取りを横で見ながら、昨日とは違う空気を感じていた。
綾小路先生のカクテルは、言葉をほどくものだった。
でも、松永先生の一杯は――背中を下ろさせる味だ。
「……先生、今日はもう少しゆっくりしていってください」
「そうするよ」
松永先生はグラスを包むように持ち、肩の力を抜いた。
私は、ふと気づく。
怜さんは無理矢理元気づけることはしないし、励ます言葉も使っていない。ただその人が今戻るべき場所を、グラス一杯で作っているだけだ。
お客さんに、自然に寄り添っている――簡単にできることではない。
「……すごいですね」
思わず声が漏れた。
怜さんが、ちらりとこちらを見る。
「何が?」
「その人に合う味を、ちゃんと選べるところです」
怜さんは、一瞬だけ考えてから言った。
「選んでるわけじゃない……聞いてるだけだ」
その言葉が、ゆっくりと漂う。
このBARで流れているのは、音楽でもお酒でもない。
――人の“今”そのものなのだと、私は少しだけ分かった気がした。




