2. アルバイト
三階の部屋は、思っていたよりも広かった。
もともとスタッフ用に使っていた部屋なので、ベッドと机、クローゼット、小さなキッチンと浴室まで揃っている。
カーテンを閉めると、外の雨音がやわらかくなった。
「必要なものは、明日揃えればいい」
そう言って、怜さんは部屋の外から鍵を差し出してくれた。
今日はもう、休むだけでいい……
「一階にいる。もうすぐ営業時間だからな」
「はい」
扉が静かに閉まる。
ベッドに腰を下ろすと、緊張の糸が一気にほどけていった。身体が重たい。
安心するとこんなにも疲れが分かるものなんだ。
灯りを落とし、横になる。
天井を見つめながら、呼吸を整える。
――眠れるだろうか。
不安はあったけれど、不思議と胸のざわつきは少ない。怜さんの雰囲気がそうさせているのだと思う。
彼は、BARで様々なお客さんにカクテルを振る舞うのだろう。その人にあった飲み物をさりげなく選んで、ふっと笑いながら優しい手つきで。
そんな想像が浮かんで、心がほんのりと温かくなった。
――たぶん、大丈夫。
ここでは、無理をしなくていい。
そう思えた瞬間、意識はゆっくりと闇の中に沈んでいった。
◇◇◇
翌朝――
初めての場所なのにぐっすり眠れた。身体はかなり楽になっている。
私は着替えて一階に降りた。
雨が上がっても湿っぽくて、梅雨の匂いがまだ残っている。
「おはようございます」
「おはよう、せな」
……名前で呼ばれた。
それだけで鼓動がうるさくて。
「ゆっくり眠れた?」
「はい……怜さんのおかげです」
「フフ……俺も、三階に誰かがいると思うと……安心できた」
そう言って笑顔を見せてくれるものだから、心臓の音が響き続けている。
「お腹すいちゃって。何か買ってこようと思います」
「……それなら俺が作るよ」
「え?」
「座って」
私はカウンターに座る。
彼はキッチンでフライパンを手に取り、溶いた卵を流し入れた。ジュウという音だけで空腹が満たされそうだ。
トースターにパンを入れてスイッチを回し、棚から皿を取り出す。
やがて目の前にはトーストとスクランブルエッグ、コーヒーが並んだ。
「……美味しそう」
「どうぞ、召し上がれ」
「ありがとうございます、いただきます」
ふわふわの卵はほんのり甘くて、トーストからは香ばしい香りが漂う。コーヒーの苦さもちょうどいい。
久々に、身体が先に満たされた気がした。
「何だかすみません……お世話になりっぱなしで。お金は払いますので」
私がバッグから財布を出そうとすると、怜さんは「ちょっと待って」と言う。
「……せなは、行くところがないと言ったね。仕事はしているか?」
「いえ……仕事もこれから探そうと思ってて」
「それなら……俺にいい案がある」
彼はニッと笑い、続ける。
「……先週アルバイトが急に辞めてしまってな。そろそろ新しい人を探さないといけないと思っていたところなんだ。俺ひとりじゃこの店をうまく回せない。それで君さえ良ければだが……」
「……」
「……この店で働かないか?」
言葉を返す前に、じんと熱くなった。
このBARで……働く?
ありがたすぎる申し出だ。
「……いいんですか?」
「ああ。三階の部屋も空いている。よければ使ってくれていい」
「ありがとうございます! 頑張ります」
「こちらこそ」
こうして、私はBAR LUPINE でアルバイトとして働くことになった。
もしかしたら、新しい私になれるかもしれない――そんな予感がしていた。
◇◇◇
――夕方。
エプロンをつけて、店に立った。飲食店でのアルバイト経験もあるので、大体の流れは把握できている。
それでも、初めての仕事はソワソワしてくるものだ。うまく立ち回れるだろうか。
その時、チリン、と鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
「……おや、今日は君がお迎えかな?」
そこに立っていたのは、ゆるくパーマのかかったミディアムヘアの五十代ぐらいの男性だった。
「一名様ですね、どうぞカウンターへ」
男性は慣れたようにカウンターへ歩いていき、席についた。明らかに常連だ。
「……あの女性は?」
「今日からのアルバイトです」
「そうか。はじめまして、俺は綾小路哲郎。小説教室の講師だ」
綾小路と名乗るその男性が、渋い笑みを浮かべるのを見て、私は急に顔が熱くなってきた。
BARに怜さんと、綾小路先生。
世間で“イケオジ”と言われるであろう二人に微笑まれて、アルバイト中なのに心臓がもたない。
「君にオーダーしても……いいかい?」
「は……はい。ご注文をお伺いします」
「じゃあ……君のおすすめを」
「え?」
カクテルにそこまで詳しくない私は、どうすれば良いのかさっぱりわからない。
「フフ。綾小路先生、せなを困らせないでください」
「せな、というのか。いい名前だ……今夜の小説の主人公は、君に決まりだな」
「え……? やだ……ちょっと」
いけない、ちゃんとしなきゃ。
なのに綾小路先生のぬるい視線が、心を揺らす。
「じゃあ綾小路先生のカクテルを、一緒に作ろうか。せな……こっちにおいで」
「は、はい」
私は怜さんの隣に立った。
カウンターの内側に入るのは、今日が初めてだ。
「緊張しなくていい。見るだけでいいから」
そう言って、怜さんはボトル棚に視線を走らせる。
迷いがない。けれど、決めつけるようでもない。
「今日は……少し湿っぽいな」
独り言のように呟いて、一本のボトルを手に取った。
次に、背の低いグラス。
氷を一つだけ落とすと、澄んだ音が店内に響く。
「綾小路先生、甘いのは嫌いじゃないですよね」
「ええ。甘すぎなければ」
「じゃあ、軽めに」
怜さんは柑橘を取り、ナイフを入れる。
シェイカーに液体を注いでから、ほんの少し口元を緩めた。
シャッ、シャッ――
一定のリズム。
強すぎず、弱すぎず。
振っている音を聞いているだけで、気持ちが落ち着いてくる。グラスに注がれたのは、淡い若草色の液体だった。
最後に、削った柑橘の皮を軽くひねる。
表面に、細かな香りが弾けた。
「どうぞ」
差し出されたグラスを、綾小路先生が手に取る。
「……いただこう」
一口飲んだ瞬間、綾小路先生がゆっくり息を吐いた。
「……いいな。言葉がほどける味だ」
「それなら、よかった」
怜さんはそれ以上、何も言わなかった。
褒め言葉を受け取っても、誇らしげにはならない。ただ、次のグラスを磨き始める。
私はその横顔を見つめていた。
昨夜、私に出してくれた“名前のない一杯”。
今、目の前で作られたこのカクテル。
――この人は、相手に合わせて形を変える人なんだ。
踏み込みすぎず、でもちゃんと届くところまで。
「……せな」
名前を呼ばれて、はっとする。
「これ、覚えておくといい」
「え……?」
「カクテルは、材料じゃない。その人の“今”を考えるものだ」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
私はゆっくり頷く。
「……はい」
このBARで働く意味が、少しだけ分かった気がした。




