18. 私の場所は
朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
昨夜あれほど胸を揺らした出来事が、嘘だったみたいに静かだ。
カーテンを少しだけ開けると、白い光が床に落ちる。
昨日の自分を思い返して、私は小さく息を吐いた。
――ちゃんと、言えていたよね。
逃げなかったし、過去にも引き戻されなかった。
もちろん今一番大切なものは、もう迷わない。
それでも、心の中に湧いてくるのは“自信”のようなもの。
怜さんはまだ眠っている。
「……いい寝顔」
顔を近づけてみるけれど、起きる気配はない。
……私の心拍数が上がっただけだった。
起こさないように身支度を整え、メモだけを残す。
『買い物に行ってきます。すぐ戻ります』
◇◇◇
スーパーに到着した。
野菜と果物、ハーブを選びながら、自然と次のメニューを考える。
ハロウィンもあるけれど、秋はまだ続く。
林檎とシナモン、少しだけビターな後味。
――今夜、試してみよう。
林檎は綾小路先生が好きだと言っていた。
シナモンは、どこか松永先生っぽい。
ビターなのは、薫さんの好みだったはず。
「怜さんは……何て言ってくれるかな」
最近では買い物のときも、彼やお客さんのことを思い浮かべるようになった。自分が買うものだけでなく、店のことも考えてしまう。気づけば食材でかごいっぱいになりそうだった。
「今日もたくさん買っちゃった」
レジを済ませて、スーパーを出る。
昼前の街中は、朝の名残が混ざって少し涼しい。
こうやって秋がきて、知らない間に冬が来るんだろうな。
そう思った瞬間だった。
「せな」
呼び方で、分かってしまった。
振り返る前から、身体がこわばる。
少し離れた場所に、啓一が立っていた。
「……話がある」
胸の奥が、きゅっと縮む。
どうして……またいるの?
「今は時間がありません」
「五分でいい」
一歩、近づいてくる。
その距離感がもう私には受け取れないものだと、はっきり分かる。
「昨日の件だ。僕は……」
「私、戻りません」
声が震える。
こんな場所で、怜さんもいない中で……どうしよう。
「君なら分かってくれると思った。今さらだけど……僕にとって、せなは居場所だった」
「じゃあ、どうして――」
「あれは、仕事も忙しくて……つい浮ついてしまっただけだ。きちんとしている君に、甘えていたんだ。僕は、自分と向き合おうとしなかった」
信じられない――
今になって、そういうことを言うのだから。
あの時、もう少し話が出来ていたら違ってたかもしれないのに。
でも、もうそういうことじゃない。
――私の場所は、あの店だ。
そして怜さんの隣にいるって、決めたんだ。
袋を持つ手が、少し震える。
足は動かないままだ。
――逃げない。
「……あの男に、守られてるつもりか」
「違います」
はっきり否定できた。
「私は、自分であの店に立ってます」
その瞬間、啓一の表情が歪んだ。
“知っているせな”が、いなくなった顔だ。
あの場所にいる私は、啓一の想像するような私じゃない。
すると、後ろから足音が聞こえて――いつもの声がした。
「……せな」
そこには、怜さんがいた。
真剣な表情で、私の隣に立つ。
それだけで、私はやっと息ができるような気がした。
「せなは、もう“選び直す場所”にいません。これ以上、彼女の時間を使わないでください」
低く、落ち着いた声が響く。
私はほんの少しだけ、怜さんに近寄った。
守られるためじゃなく、同じ場所に立つための距離。
啓一は、しばらく私と怜さんを交互に見ていたが、やがて視線を逸らした。
「……そうか」
そう言うと、彼の後ろから一人の女性がやってきた。
柔らかい雰囲気で可憐な人。
彼女は「啓ちゃん……」と声をかける。おそらくさっきの“浮ついてしまった”相手だろう。
「……待って、いかないで」
「美咲。今は――」
啓一は苛立ったように眉を寄せる。
女性は一歩だけ前に出て、震えていない声で言う。
「今じゃなくて、いつなの?」
空気が止まった。
「あなたはいつも、“今じゃない”って言う。仕事が忙しいとか、タイミングが悪いとか」
啓一の表情が強ばる。
「でもそれって――何も選んでないよね?」
可愛らしい外見から、はっきりとした言葉が出てくる。
「私といるなら、ちゃんと私を選んで。あの人を振り返りながらじゃなくて」
――私が結婚している時には言えなかった言葉だ。
その視線は、もう私を見ていない。
啓一だけを見ている。
啓一は言葉を失ったまま、立ち尽くす。
私は何も言わない。
もう、私が答える番じゃない。
数秒の沈黙のあと――啓一は大きく息を吐いた。
「……分かった」
悔しさも、未練も残したままかもしれない。
それでも、息を整えて彼女の方を見つめる。
「ちゃんと向き合う。逃げない」
それは宣言というより、自分に言い聞かせる声だった。
最後に私を見る。
まだ何か言いたげな目をしているが、私は静かに頷くだけだった。
「……せな、元気でな」
啓一は彼女の隣に立つ。
二人の距離は、今度は少しだけ近かった。
――私も、あの時あんなふうに言えたらよかったのかもしれない。
やがて人通りが戻り、街の音も戻る。
さっきまでの出来事が、夢だったみたいに。
「……大丈夫か」
「うん」
私は深呼吸をして、頷いた。
「昨日より、大丈夫だから」
……頑張って笑ってみる。
怜さんは、何も言わずに袋を持ってくれた。
「戻ろう」
「うん」
◇◇◇
「……なるほどね。元夫とか元婚約者って、ちょっと鬱陶しいわよね」
夜のBARで、里佳子さんがグラスを揺らしながら言った。
あれから彼女は時々来てくれるようになり、今では元夫の話までする仲だ。
「……鬱陶しいか」と怜さんがぼそっと言ったような気がしたけれど、里佳子さんは気にせずに喋り続ける。
「過去はなかなか切り離せない、そういう人も多いものよ。時間が解決してくれるって言うけど、そう思うまでに結構時間経ってるのよね」
「……ああ、わかります」
彼女はグラスを置いて、怜さんの方をじっと見た。
……少しだけ怜さんが構えた姿勢を取っている。何か言われる、と思ってそう。
「怜もせなちゃんのこと、幸せにしなきゃダメよ?」
いきなりの“せなちゃん”呼びに驚きながらも、そう呼ばれてちょっぴり嬉しい自分がいた。
「あ……私は大丈夫ですので」
「そう? やっぱりねぇ、こういうのは女性がうまくこう……」
少し酔っている里佳子さんに、私はさりげなくお水を差し出した。
「……ふぅ。ありがとう。ここに来るようになってから、家でも気持ちが沈むことが減ったの」
「それは良かったです」
「だから……いい店ね」
私は、その言葉をゆっくりと胸で受け止める。
怜さんの方を見て、思わず笑顔になった。
彼もふっと微笑む。
夜は静かに更けていった。
――今日もお客さん達の声を乗せて。




